海底に横たわる龍は目覚めることなく、眠ることなく、鼻や口からこぽこぽと泡を零しながら、終わりの時を静かに待っている。
終わりの時とは、気が遠くなるような、果てしない時間の先にある一瞬。泡が尽き、動悸が止まり、ようやく訪れる永久の夢。
地中で生まれた為に海中で生きられない龍は、深海魚のみが知る世界の底で、時に殺されるのを静かに待つ。
その龍は、抱擁を求めて海に沈んだ。
あまりにも巨大な、山のような体を、包み込んでくれるものを欲していた。
それが、それこそが、海だった。
ある時、龍は人の村のそばを通りかかった。用心しなければひき潰してしまいそうなほどに、それは龍にとって小さすぎる村だった。
龍を見上げる村人は恐れ喚いて矢を放った。強大な龍からすれば人の矢がいくら刺さろうと痛くもかゆくもない。痛みを与えたとすればそんな些細なものではなく、涙を堪えようと顔を歪ませている母親に強く抱きしめられた、泣きじゃくる子供の姿だった。
(羨ましい)
大地を胎に命を授かった龍には、自らを愛して抱きしめてくれた母親がいない。
あえて挙げるのなら星が出てくるが、それでは万物皆兄弟になってしまうし、第一、抱きしめてくれないそれを母親と呼びたくはない。龍は星を好んでいたが、それは母親への愛ではない。明確な母親など存在しなかった。
だからこそ、母親の抱擁に憧れた。自らの危機を省みてまで子を守る母親が美しく、そして守られる子供が羨ましく思えた。
しかし、龍は――動植物に山と間違われる程の巨体を誇る龍は、自分を包み込めるような存在を知らない。それほどに龍は大きすぎた。
他の龍でさえ、山のような龍の半分の大きさしかない。さらに、風のように各地を渡り歩く龍に言われてしまったのだ。
「お前よりも大きな生き物は、一度も見たことがない」
一度焦がれてしまうと簡単に諦めはつかない。龍は憧れをいっそう強くした。
龍は考えた。山を包み込めるものは何なのかを。
風のような龍は、真剣みに欠けた軽さで「風や空気は何もかも全てを包み込んでいるぜ」と教えてくれたが、それは山のような龍には納得のいかない詭弁でしかない。
しかし詭弁は手掛かりになった。自分よりも大きな生き物がいないのなら、生き物でなければいいのだ。龍がこだわっているのは包み込むような抱擁であって、その際に伝わる鼓動ではない。
そこでひらめいたのは水だった。並の川や湖なら入るだけで水が逃げてしまうが、どこかには自分を包み込める程の大きな湖があるのかもしれない。
それも詭弁に似ていたが、龍は無理やり納得した。なりふり構ってはいられない。
心当たりがないかと風のような龍に尋ねると、またも軽い調子で答えてくれた。
「とんでもなく広い水溜まりなら、遠くの方にあるぜ。ただ、ぬるくてしょっぱいから、飲み水としてはお勧めしないね」
山のような龍はそれを見つけ出した。何よりも大きかった自分が小さく思える程の、地平線にも似た水溜まり。
あまりにも壮大な存在感に、大粒の涙が零れ落ちた。
静かで穏やかな水溜まりは、さざなみも立てずに龍を待っている。龍は、生き別れた母親と再会した子供のように、喜びの涙を見せながら駆け寄って、身を委ねた。
しかし、山のような龍が知らなかったことが――知るべきだったことが三つある。
その水溜まりは海といって、湖とは比べ物にならない深さを誇ること。
龍という生物は特定の万物に近い力を司り、その司った力があるべき場所でしか生きられないこと。即ち、山のような龍は――山の龍は、海の中では生きられないこと。
龍という生物は寿命でしか死ねないこと。
寿命というのは自らのと世界の二つを指すが、どちらも気の遠くなるような莫大な時間である。
それまで龍は、生きられず死にきれず、果てしない時間を海に抱かれて過ごすことになる。
(ああ、でも、いいか)
憧れに手が届き、憧れに抱かれている龍は、全身の力が抜ける感覚に戸惑いながらも、満足していた。
長らく欲していた抱擁はとても気持ちがいい。まるで生まれた地のように温かく、心を落ち着かせる。
生命活動と引き換えに得た安らぎは、龍の心を満たしていく。
頼ったものに守られて。
すがりたいものに包まれて。
愛したものに愛されて。
龍は今、とても幸せだ。
このまま、幸せに浸ったまま、永遠のような時間が続く。
龍か海、どちらかが死ぬ、その時まで。