気が付けばそこは泉だった。
 日に照らされ鮮やかにきらめく木々に囲まれた閑静な、それでいて美しい泉。
 山の龍は、戸惑いながら辺りを見渡す。自身がいるのは泉のほとりだ。すぐそばには人の形をした者が、こちらをじろじろ眺めている。
 龍はすぐに察した。目の前にいるのは、人ではなく、壮年の男に化けた狸だと。
 否、目の前というには語弊がある。目の上だ。
 山の龍は、狸よりも小さかった。
「何だ、これは」
 体内に響いたのは人の子に似た声。驚いた龍は慌てて水面を覗き込み、自らの様を確認する。
 映ったのは、いつの日か見た、母親に抱かれた子供の驚いた顔だった。
「何だ、これは、ね。恐らく僕は君の疑問に答えることができるけど、どの疑問を答えればいいかはさっぱり分からないな。君は何を聞きたい?」
 尋ね返してくる狸はどこか気だるげだ。改めて容貌を観察すると、身にまとう着物や羽織も少々はだけているし、化けている癖に頭髪もぼさぼさだ。ものぐさなのは狸が化けた対象か狸そのものか、山の龍は不思議に思う。しかしそれを口には出さない。龍にとってはどうでもよいことだ。
 もっとも、今は龍ではなく人の子なのだが。
「――夢、なのか?」
 どうして海底にいた筈の自分がここにいるのか。どうして人の姿になっているのか。お前は何者なのか。
 溢れ出る謎を簡潔にまとめて省略した質問に、狸はやはり気だるげに答えた。
「現実だよ。君にとっては夢かもしれないけど」
「?」
「君は、夢に似た形で現実を見ているんだ。かといって千里眼や予知夢ではない。魂の散歩、といった所かな」
「魂の散歩?」
「肉体から切り離された魂がここに流れ着いたというわけ。今の君は、肉体のない魂そのものだ」
 わかった? と狸は首を傾げるが、さすがにすぐは頷けない。龍は少しずつ話を咀嚼して、整理した。
 狸の話が本当なら、龍は自らの肉体と魂を切り離してここに――久々の陸地にやってきたらしい。つまり肉体は、未だに海底で横たわっているのか。
 力が入らず活動を封じられながらも、海に愛されている。しかし魂はこっそり抜け出し、よその泉へ遊びに行った。そう考えると、小さな罪悪感が湧き上がる。
「気になっているだろうからついでに言っておくけど、その姿も魂の表れと思ってくれて構わないよ。肉体と違って、魂は自在に姿を変えられるからね。今だって、君が望んだ姿なんだろう。慣れてくれば、好きな姿になれる筈だ」
 望んだ姿と聞いて、なるほどと素直に納得した反面、苛立ちが募った。かの子供に憧れた自覚はあった。しかし子供になるのを望んでいたとしたら、ありのままの姿を受け入れてくれた海に対する裏切りだ。
 挽回の為にも、早くこんな所から抜け出して海底へ戻りたい。
「ここは、どこだ?」
 鋭く尖った物言いになったが、人の子の姿では迫力がない。狸は臆せず、むしろ、待ってましたと言わんばかりに口を緩ませる。
「ここは、センの森。泉と書いて、センと読む」
 せんのもり。頭の中で復唱する。続く言葉は、人の字に馴染みがない龍にはぴんと来なかったが。
「来るべき者しか来れない、特別な森だ」
「来るべき者?」
 狸は、自らと龍を順番に示してから、丁寧に答える。
「生きることも死ぬこともできない――命を奪われた“がらんどう”が流れ着く安息の地」
 狸の言葉が龍の胸にすっと落ちる。生きることも死ぬこともできないというのは、なるほど、海の愛を受けながら死の時を待つしかできない現在の自分にはおあつらえ向きの表現に思えた。
 命を奪われた、というのは死を表しているようでいささか気になったが、生があってこその死――命あってこその死と考えれば頷ける。
「君がどうして“がらんどう”になったかは知らない。だけど、ここに来る者はみんな訳アリさ」
「どうやったら、元の場所に戻れる?」
「何だ、君は帰りたいのか。時が来れば自然と帰れる筈だ、焦ることはない。時というのは、その者にも寄るけどね」
「よく分からないな」
「さらに言うと、君がいつ帰れるかは僕にも分からない」
「じゃあお前はどうなんだ?」
「僕、は――ここが居場所みたいなものだからね。途方もない時間をずーっとここで過ごしている。君がいつここに来ようと、僕は必ずここにいるよ」
「途方もない時間を散歩して過ごしているのか」
「いや、ここに来る者の大抵はそうだけど、僕の場合は少し異なる。……異なるというより、むしろ真逆か」
 言葉を止めて息を吐き、龍の幼い眼を見据える狸。小豆色の瞳には何も映っていない。
「昔、悪戯がすぎて神の怒りを買ってしまってね。その時に魂を奪われたんだ」
 ふう、と息を吐くと、何食わぬ顔で続ける。
「今、君の目の前にあるのは、中身を失くしたもぬけの殻。好きなように姿を変えることもできない」
 これでも狸なのにね。
 そう言って浮かべた笑みは乾いていて、何もない。彼の感情はとうに枯れてしまったのだろうか。
「僕のことを知ったなら、君の話を聞かせてほしい。ここしばらくは話し相手がいなくてね、少し退屈していたんだ。君が帰れる時が来るまでの時間潰しにでも、どう?」
 龍の低い目線に合わせ、張りのない表情で話しかける。瞳に龍は映らない。
 龍は、狸を可哀想だと思った。可哀想な彼を、いつかの抱擁を求めていた自分と重ね合わせた。
 だから、龍は自らの話をする。彼の退屈を紛らわせればと願って。

「愛っていうのは、重いね。口で言う分には簡単なのに、質量はとんでもない」
 自らの命が奪われた――“がらんどう”になった経歴を聞いた狸の第一声がそれだった。
 きれいな泉のほとりで、中身のない狸は語る。
「君は海に恋をして、海は君を受け入れて、そして文字通り愛に溺れている。なるほど、聞いてみればこの上なく幸せだね。珍しいものだ」
「ここを尋ねてくる奴は、そうでもないのか?」
「そうだね。皆が例外なく辛い思いをしている。命のあり方を否定されているのだから。逆に言えば、辛い思いをしなければ肉体と魂が離れたりはしない」
「俺は違うぞ」
 反射的に出てきた否定には龍も驚いたが、訂正するつもりはない。辛いなど一度も思ったことがない、海に包まれて幸せなのだから。
 それでも狸は空っぽの眼で静かに否定を返す。
「違わない」
「俺が満足しているんだ」
「満足だから幸せ、とでも?」
 狸が吐いた息は、呆れを含んでいた。龍は眉をしかめて、
「そうだ」
 と、肯定した。
 空気が張りつめ、大地が揺れて、なだらかな草原に亀裂が走る。泉の水面はさざなみを立て、龍の鼓膜をつついてきた。
「お前がなんと言おうと、俺は、幸せだ」
 人の子にしてはどすの利いた声。今こそ呟きに似た声量だが、もしも叫べば土砂でも崩れそうな力のあるそれは、龍の主張。
 しかし狸はひるむ様子を見せない。なだめるような、あるいはあしらうような、よくも悪くも落ち着いた態度で主張を受け止める。
「それは結構。しかし事実、君はこの森に来てしまっている」
「それでも違う」
「ふむ、頑固だね。さすが山の龍というべきか。君自身が幸せだと思うなら、それに越したことはないんだけど」
 中途で喋るのを止め、泉を覗き込んだ。言葉の続きがそこにあるのかと、龍は鋭い目付きで狸の目線を辿る。
 水面に映っているのは壮年と子供。等身大ではないそれぞれ。
「――愛は重いからね」
 先に出した台詞を、もう一度口にする。唐突な上に脈絡のないそれに、龍は「あ?」と棘の生えた反応を零した。
 竜の眼差しは狸に向けられたが、狸は未だに顔を上げず、水面の壮年と睨めっこをしている。
「愛情や好意、あと嫌悪や憎悪もかな? それらの強い感情は、重いんだ。そういうのを抱えすぎたり、向けられたりしすぎると、胸が重たくなって――自分らしく動けなくなる。君の胸もそうだ。海への恋情と、海からの愛情。それらが溢れかえって、重くて、苦しんでいる」
「違う。苦しくなんかない」
「気付いていないだけだよ。長い間海底で横たわっていたのなら、胸の重みを自覚できなくてもおかしな話じゃない」
「違う!」
 あくまで否定を続ける龍に対し、狸は目を細めた。
「――じゃあ違っていてもいいから、僕の話を聞いて」
 穏やかでありながら重みを含め、それでいて不思議と何もない。虚無的な声色に息を詰まらせ睨んでくる龍をよそに、狸はおもむろに顔を上げて空を仰いだ。
「ここはいい場所だよ。平和だし、静かだし、風は気持ちいいし、泉は冷えているし、たまに君みたいな客も来る」
 足先を泉につけて、ぱしゃぱしゃと水を蹴りながら、その目先は変わらず上空に。
「僕はここを気に入っている。だけど、できればここから出てみたい」
 狸の横顔は儚く、悲哀を交えていた。
 龍にとっては意外な発言で、あまりの驚きに表情の張りを失くしてしまった。
 ここで狸はようやく龍と目を合わせ、そしてやはり薄く、儚げに笑う。
「いつか海底に連れて行ってほしいな――なんて、無理なお願いだけどね。かれこれ六百年、ここから出られずにいるのに、海底なんて行ける訳がない」
 自分が海底に沈んでからどれほどの年月が経っただろう。
 龍の脳裏に浮かんだ疑問は、棘を持って胸に刺さる。しかし、不思議と胸が空くような感覚もあった。張り詰めた空気が穴から抜けるように、胸のうちがしぼんでいく。

 六百年の退屈を泉がある森で潰している狸と、永遠に近い時間を海に愛されながら過ごす龍。
 異なる世界で生きている者たちが出会い、言葉を交わし、様々な話をしているうちに、やがて空は星の光を降らせていた。
「皆、よく言うんだ。ここから見える星空は綺麗だって。僕は長い間見ていたから、特にそうは思わないけど」
「確かに、綺麗だ。こんな綺麗な星空を見たのは、初めてかもしれない」
 黒い空に散らばる光の粒。小さくなった眼でもはっきりと分かるほど、一粒一粒の輝きは強い。
「海底からでも星空は見れる?」
「いや、空からの光は届かない。腹を減らしたちょうちんあんこうが微かに光るだけだ」
「じゃあ暗い?」
「そうだな、暗い。深海魚が通らなければ何も見えない。自分の鼓動と、海の呼吸を聞くしかない」
「この森とは全然違うね」
 狸の言う通り、星に照らされたこの森は夜でも明るい。
 長らく闇に閉ざされた世界で過ごしていた龍だが、その明るさは不思議と心地良かった。否、闇に閉ざされていたからこそ、光に安堵を覚えたのかもしれない。
 星は凛々と輝いて、弾むように龍に話しかける。
 こんばんは!
 いい夜だね。
 久々に会えて嬉しいよ。
 海の中は幸せかい?
 君が楽しそうでよかったよ。
 それじゃあね。
 またいつか、ここで会おうよ!
 龍の魂が、人の子から光へ変わっていく。つま先から少しずつ。きらきらと。
 光の粒は星の光にも、ちょうちんあんこうにも似ていた。
「気分転換になった?」
 狸が、瞳に龍を映しながら柔らかい笑みで問う。龍は目を伏せて沈黙した。それが答えだった。
 龍の意図を汲んだ狸は、小さく頷いた。
「疲れたら、またおいで。僕はいつでもここにいるから」

 まぶたを持ち上げると、暗闇だった。
 星明かりも狸も森もない海の底。世界の果て。魚と海と山の龍だけの世界。
 見慣れたはずの海底が、酷く美しくて、心地よい。やはりここが自らの居場所なのだと、龍は改めて実感した。

(おはよう。どこへ行っていたのかしら?)

 海流に乗って届くそれは、魚の声か海の声か。狸のそれよりは女性的な響きだ。
 呼吸のできない龍は喋ることが叶わない。だから胸の内で静かに答えた。

(ちょっとだけ、星を見に)

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