隣のクラスの転校生は人間じゃないらしい。
 夏休みを終えて二週間が経った水曜日、卯月の耳に入ってきた噂は信憑性に欠けていた。
 休み明け早々に転校生が来たという話は、そのクラスに属する友人から聞いていた。曰く、交際している女が霞んで見えるほど可愛くて特別な存在感を持つ美少女。どれだけのものかは知らないが、随分と盛ったものだと呆れた覚えがある。女に囲まれて育った卯月は異性に特別な意識を持てない――否、むしろ苦手としていた。彼に言わせれば女などどれも同じだ。容姿に関心はなく可愛くも綺麗とも思わない。しおらしい仕草は借りてきた猫。いずれは丁寧に繕った皮も剥がれ、泣いて喚いて暴れ回って自分の人権を奪っていくに違いない。そんな確信めいた妄想を警戒し、今までに受けた告白も全て断っている。
 だからどれほど男を惹きつける外観であろうと、その転校生に惚れることはないと自負していた。
 しかし、人外と称される由縁はそこではないらしい。
“その転校生、物を食べないんだ”
“飲み物も?”
“何かを口に入れる所を誰も見たことないって”
“便所にも行かないの?”
“食べないなら出す訳ないじゃん”
“隠れてこっそり食べてるとかは?”
“自分の鞄も持ってきてないんだぜ。ノートとかも机の中に置きっぱなし”
“宿題どうしてるんだよ”
 卯月を取り巻く三人の友人達が神妙な面持ちで話し合う。卯月は参加せず、ただ頬杖をついて静聴する。弁当を食べ終えた後の昼休みは、彼等と話をすることでしか時間を潰せない。
 この話題は退屈だ。
“見てみたいな”
 ひとりの一言をきっかけに、隣の教室へ噂の人外を覗き見に行く羽目になる。
 期待を膨らませる彼等を横目に卯月はため息を吐いた。面白くない。女ひとりにはしゃぐなんて時間の無駄だ。どうせ無駄にするなら、放課後に行なわれる学級会議を抜け出す術を考えたいとまで思う。
 だが募る鬱憤は、実物を目にした時、忘却の彼方へと吹き飛んだ。
 一目で転校生を特定できた。
 彼女は何をしている訳でもなく、ただそこにいる。そこにいるだけで、周囲と一線を画している。かろうじて肩に掛かる程度の黒髪は雑に切られているが艶やかで光を帯びている。顔立ちは低い鼻に丸い目と幼さが目立つが、対して上背は少々高めでスレンダーな体付き。背筋を伸ばして姿勢よく座っている姿は目にするだけで心が研ぎ澄まされていく。
 彼女の机は綺麗だった。距離があってもそうだと分かるほどに。食べかすも消しかすもない。大切に使っているというよりも汚すようなことをしないのか。
 世界が違う。光景から浮いていた彼女は、いるべき次元を間違えている。それでも卯月の視界には彼女がいた。むしろ彼女以外の輪郭がぼやけている。友人達の声も遠くなっていく。
“可愛いし、神秘的だけど、どっか不気味だな”
“幽霊みたいな?”
“でも足あるぞ。ロボットじゃね?”
 思い思いの言葉を口にする無礼な友人達にも気に留めない、気付いてもいないらしい彼女は、ただ遠くを見つめている。
“ロボットだったら女じゃないし、卯月、どうよ?”
 なんて肩を叩かれるが、その響きには違和感があった。ロボットは人間が作った物だが、彼女はそこまでいびつではない。作られたとしても、それは人にではない、さしずめ神だ。生まれる世界を間違えた哀れな神の落し物。
「ロボットというより、天使っぽい」
 一斉に噴き出す友人達。気恥ずかしさで顔から火が出そうだった。

 企画会議は簡単に抜け出せた。母の帰りが遅くなるので代わりに夕飯を作らなければならない、と頭を下げたら、あっさりと了承を得た。卯月のそれを嘘とは思わずに、大変だね頑張って、と優しい言葉を吐いたクラス委員はどこまでもお人よしで単純だ。
 正面玄関で彼女の下校を待つ。やがて、噂のとおり鞄を提げていない彼女を発見し、息を潜めながらじろりと凝視する。
 1−Dクラスの下駄箱より黒のローファーを取り出し、指を入れて丁寧に履いている。白い足に黒のニーソックスはよく栄えた。細い足首に浮き出たくるぶしは控えめにだが存在を主張し、卯月の視線をさらう。
 間もなく靴を履くと立ち上がり、ゆったりとした歩みで玄関を潜る。卯月は気配を消したまま距離を測り、そして気付かれないように足取りを辿った。
 卯月にとって彼女は異形の存在だった。生活感がないくせに整っていて神秘的で、世界から浮いているそれは、他の女とあまりにも違う。一目見た時から、存在そのものが脳裏に焼きつき離れそうにない。初めての感覚だ。
 卯月は彼女に惹かれ、同時に彼女を恐れていた。
 例えば本当に人間ではない――天使だというのなら何の心配もないのだが、もしも彼女が他の女と同じであれば、できすぎた化けの皮が、そしてその皮に隠された中身があまりにも恐ろしい。一刻も早く正体を暴き、得体の知れない転校生を特別でなくしたかった。特別な女など作りたくない。自分を振り回す女など姉と、妹達で充分だ。
 こそこそと背中を追っていると、彼女がまっすぐ公園へ入っていく様を捉える。どうやら学校を出た瞬間からここを目指していたらしい。今思えば足取りに迷いがない。まるで線をなぞるように。
 卯月はこの公園を知っていた。学校から近いこともあるが、昔によく家族で訪れていた。地方の公園にしてはやや大規模な作りで、中央には池と噴水がある。遊具のみならず多くのベンチや広場もあり、休憩場や運動場としても利用される。さらに至る所に設置された外灯、加えてすぐそばに団地があることから、昼夜問わず人気がある。しかし昼と比べれば利用者が、そして安全性がなくなるのは明白だ。夏を終えたばかりの九月半ば、日はまだ高いがこれから沈む。こんな時間に、彼女は何をしに来たのだろう。
 彼女は池の周りに敷かれた歩道、それに沿うように設置された長いベンチの真ん中に腰を下ろした。それから膝の上に両手を置き、空を仰いで何をする訳でもなく、ただそこにいた。そこにいるだけなのに、やはり世界から浮いている。
 知る為にあとをつけてきたのに、これでは一向に分からない。何も行動しない彼女を観察するだけでは進展はなく、立ち尽くしていてもいたちごっこだ。どうしようかと悩み頭を掻いた瞬間、彼女の目先が動いたことを卯月は感じ取る。眼差しを追うと、公園に備えられた大きな時計に辿りついた。時刻は五時を過ぎている。時間の概念があったことに小さな驚愕を覚えた後、再び彼女を見遣る。
 手は膝の上のまま、こくりと首を落としていた。あまりにも静かで、微動だにしない。周囲の空気は徐々にこの次元へと馴染んでいく、彼女がこの世界へ溶け込んでいく。
(まさか)
 そっと近付いて、覗き込む。双眸はまぶたによって隠されていた。
(――眠ったのか?)
 寝息を立てず、胸も上下していない。糸が切れた人形のように力なくベンチに座っている。息絶えた訳ではないようだが、不安が卯月の胸を騒がせる。
 寝ようと死のうと、無防備なことには変わりない。これから日が傾くというのに、一体何を考えているのか。万が一夜まで夢の中にいたら、もしも暴漢に目を付けられたら、それこそ一生物の傷が残るというのに。
 彼女は知らないのかもしれない。危険、恐怖、自身の魅力。或いは、思考を巡らせるということ。何も考えていないからこそこんな真似ができるのか。見出した答えはすとんと腑に落ちた。
(どうするか)
 なんて考えてみるが、どうするべきか卯月は理解している。体を揺すって安眠を奪い、「こんな所で寝るのは危ない」と一言告げればいいだけだ。それでも手が動かない。どうにか持ち上げられたがそこから前に伸ばせない。彼女に触れることを恐れ、拒んでいる。
 卯月に潔癖の気はない。どころか自分の手より彼女の肌が綺麗だとも思う。故に恐ろしいのだ。彼女に触れてはいけない、と何かが告げる。
 空を撫でる右手は虚しい。揺すって起こすことを諦め下ろそうとした瞬間、彼女のまぶたが持ち上がった。
「あ」
 変な声が出た。気を取り戻した彼女に安心した反面、妙な間を目撃された居心地の悪さが全身に圧し掛かる。急いで手をしまい言葉を繕おうとするがうまくいかない。まぶたが開ききらないまま卯月を眺めていた彼女は、しばらく呆然とした後に小首を傾けた。
「座りたい?」
「え?」
「ここ」
 横に移動してベンチを叩く。所作は静かだが機敏で、先程のまどろみを忘れさせる。滲み出てくる冷や汗。もしや。
「さっきまで、寝てた?」
「寝ようと思っていたけど、目が冴えた」
 頬をつねられたような感覚と共に緊張が走る。まさか意識があるとは予想していなかった。いよいよばつが悪くなり、逃げ出すという選択肢が脳裏をかする。それでもベンチを叩きこちらを窺う彼女を裏切れない。卯月は仕方なく招かれた。
 隣同士に座るも距離を詰めるなどという真似はできず、鞄を抱えて小さく縮こまる。体が固まり、動悸が速まる。さり気なく彼女を一瞥した時、彼女もこちらを観察していたと知った。
「なに?」反射的に零れた声に、彼女は疑問符を発した。「同じ学校?」卯月は頷いて、制服に縫い付けられた校章を指す。彼女はそれを睨み、そして顔を上げた。
「本当だ」
「制服見たら分かる。……えと」
 呼び起こす記憶。正面玄関、下駄箱、ローファーが入っていた箱、そこにあった白いプレート。苗字は確か。
「……はちえだ?」
「違う」
 否定が恥や後悔を取り込んで刃と化し、卯月の胸を貫いた。沸き立つ脳、眩む頭、いっそ消えることができたら楽なのに。
「八枝(やつえ)、八枝葉月」
「悪い」
「平気。よくあるから」
「ああ、そう」
 立ち直らない心を叱咤し、小さく復唱する。八枝葉月。名前も顔付きもれきとした日本人だ。浮世離れした雰囲気はやはり天使と重なるが、あくまで人間なのだろう。間近で目にして分かった。彼女は人の親から生まれた睡眠を欲するひとりの少女なのだと。
 問題はこれからだ。できすぎた化けの皮を剥がさなければならない。
「俺は卯月。卯月士郎。1−Eの」
 とりあえず八枝に合わせて自己紹介をする。八枝は「そう」と答えたきり、何も喋らない。
 喋らないならこちらから。卯月は体を捻らせ八枝と向き合った。
「で、どうしてここで寝ようとしたんだ?」
 直球に尋ねたつもりだが意図を汲めていないらしい、八枝は不思議そうに卯月を眺める。顔に集まる熱を振り払い「危ないだろう」と付け加えると、軽く首を振った。
「平気。よくやるから」
「え?」
「昨日も一昨日も、先週も平気だった」
「毎日ここで寝てるってか!?」
 首肯する八枝に目が回りそうだ。姉一人と妹二人を持つ男として無視はできない。いよいよ聞き質さなければ、意気込み新たに息を吐く。
「家は?」
「入れない」
「親は?」
「共働き。八時まで帰ってこない」
「鍵は?」
「持ってない」
「何で」
「失くしそうだから」
「……じゃあ適当な店に入ればいいだろ。ここからちょっと歩けば色々あるし」
「お金」
「うん?」
「今は持ってない」
「何で!」
「失くしそうだから、持ってても意味ない」
 いよいよ呆れてしまう。生活感のない特質な雰囲気に惹かれはしたが、本当に生活ができないとは。
 一目見た時は完成された天使だと思っていた。しかし実際は人間の欠陥品なのかもしれない。化けの皮にしては不細工で、隠された正体にしても、あまりにも未完成でいびつだ。
 つまり彼女は、八時まで――親が帰ってくるまで、寝ることで時間を潰そうとしていたのだ。携帯で時刻を確認する。五時二十七分。八時まではまだまだある。卯月ははあ、と重みのある息を吐いて立ち上がり、八枝と向き合った。
「移動しよう」
 首を傾ける彼女が可愛い。赤みを帯びた日に当たって、頬が紅色に染まって見える。やばいと直感して、とっさに顔を背ける。
「店に行くんだよ。ここで二時間半潰すより安全だ」
「でも」
「俺が払うから」
 沈黙が場を包み込む。
 遠くで子供達の笑い声が聞こえた。自身の上擦った声色を笑ったのでは、と卯月は不安になる。自分だったらあまりの滑稽さに笑い、もっとうまくやればいいのにと指を差すかもしれない。そう心の中で自嘲する、それほどまでに今が虚しい。
 このベンチの周りだけ時間の流れが遅いのかもしれない。それだけ刹那が長かった。居たたまれない空気に耐えきれず発言を払拭しようとした瞬間、腰を浮かせた八枝が目に入った。
「よろしく、お願いします」
 ぺこりと下がった頭は小さかった。

 八枝の足並みが遅いのは、あとをつけている時から分かっていた。先導に立ちながら後方の八枝を気に掛けることは造作もない。妹と外出することが多い卯月は、歩幅の小さい者の相手をすることに慣れている。その結果、八枝とはぐれることなく最寄りのファストフード店に到着した。
 六時前のレジはそれなりに混み合っていた。適当な列の最後尾に立ち、ぴたりとくっついてきている八枝に「欲しいのある?」と尋ねるも、間髪いれずに「何でもいい」と返ってくる。この反応をある程度予想していた卯月は、素直に答えを受け止めた。
 アップルジュースを二つ、Mサイズのフライドポテトをひとつ。
 注文の品は会計をしている間に用意された。トレイを持って席を探し、窓際に設置された横並びのテーブルにそれを置く。椅子も横並びだがこれでいい。今の卯月には、彼女と向かい合う勇気がない。
 ジュースを並べて間にポテトを置き、鞄を足元に放り投げて椅子に腰掛ける。彼女も続けてその隣に座った。
 そういえば、と思い出す。彼女が物を食べている姿は目撃されていないという。何でもいいと言うので適当に注文したが、そもそも食べる気などないのかもしれない。仮にあったとしても、店に充満する油の匂いで食欲が失せるのではないか。店に入ってからここに座るまで、八枝は卯月に引っ付き、卯月を眺めていた。もしかしたらファストフードになじみがないのかもしれない。
 そろりと八枝を覗き見ると、彼女もやはりこちらを見ていた。交差する視線、耳が熱くなる。
「食べないの?」
 八枝が首を傾げる。慌てて「食べるよ」と肯定し、ポテトを一本つまんだ。
 咀嚼して飲み込むまで、ずっと彼女の視線があった。緊張のあまりか、風味も味も匂いもない。
「……なに?」
 いよいよ視線に堪えきれず、尋ねる。それでも彼女は目を逸らさず、「なにも」と一言。ただの観察か、それとも何かを待っているのか。意図が汲めずに混乱する頭で、とりあえずポテトとジュースを指す。
「八枝も食べれば?」
「……いただきます」
 どうやら許しを待っていたらしい。丁寧に合掌してから、ストローをくわえた。
 こくこく、と上下する喉は、八枝が天使ではないことの証明でもあった。飲み食いをしないとは誰が吹いた法螺なのか。彼女は確かに自分の隣で、ジュースを飲みポテトを食べている。表情は一向に変化がないが。
「もしかして、嫌いだった?」
 罪悪を含めて尋ねる。八枝は静かに首を振った。
「違う。なんで?」
「なんで、って。何か無表情というか、つまらなさそうだから」
「よく言われる。気にしないで。いつものことだから」
「いつものこと、ねえ」
 笑ったらさぞ可愛いだろうに、と綻ぶ顔を想像しかけて、払拭する。思い浮かべるだけで背徳感に似た痛みが膨れ上がり、心臓を震わせた。
 頭を振って思考を切り替える。考えるより、話そう。例えばそう、明日のことを。会話の糸口を見つけ「あのさ」と切り出した時、初めて喉が渇いていたと知る。次の言葉を待つ彼女を横目に、ジュースで喉を潤した。
「……明日からは、なるべくこういう所に入りなよ。夜の公園は物騒だから。金も、今はないって言っても、家にはあるよな?」
「うん」
「これからは少しでも持ち歩いておけよ。千円でいいから」
「でも、大切にしなさいって言われているから」
「使うな、とは言われていないんじゃないか?」
「そうだけど」
「節約しろって意味だと思うな、俺は」
「でも、財布がない」
「…………」
「お金は財布にいれるものじゃないの?」
「……これ食べ終わったら、買いに行こう。安物でいいなら、俺がおごるから」
 ここで初めて、八枝の様子が変わった。目を見開かせると、おずおずと口ごもって俯いた。途中で卯月を一瞥しながら、一生懸命言葉を探しているようだった。卯月は彼女の発言を待つ。気遣いではなく、何を言い出すか興味があった。
 やがて。
「う、づき」
 彼女は卯月の姓を呼んだ。
 敬称も何もないその呼び方に驚いている間に、八枝は言葉の続きを紡ぐ。
「うづきって、妹いる?」
「え……あ、うん」
 質問が予想外で反応が遅れたが、すぐに答えた。
「来年中学生になる妹が、二人。双子なんだ」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「面倒見いいから」
「そっか」
「そう」
「八枝にはいるの? 妹」
「私が妹」
「え?」
「いるのは姉」
 それだけ言うと再び口ごもり、間をおいてから続けた。「姉が、ひとり」
 八枝はやはり表情を変えていないが、卯月の目には彼女の双眸が曇っているように見えた。姉がいるのならそうなっても仕方ない、と心の内で納得する。
 卯月の頭の奥に姉の声が響き渡る。士郎、口寂しいから何か作って。炭酸水が注がれたグラスを揺らしながら下着姿でソファに寝転がる品の欠片もない女王陛下。彼女の弟として生まれたことは、彼女の下僕であることをそのまま意味している。十年以上顎で使われた忌々しい日々は嘆かわしいことにもはや習慣だ。
 その習慣が卯月を駆り立てた。今日は水曜、のんびりしてていいのか。額に汗がぶわりと噴き出る。
「ごめん、ちょっとメールする」
 言うが早く鞄から携帯を出し、展開する。着信もメールもなし。胸を撫で下ろしながら新規メールを開き、キーを叩く。
「俺にも姉がいるんだけど、今日はバイト休みでさ。いつもより早く帰って来るから、連絡いれておかないと。どこ行ってたんだ、って怒鳴られそうで」
 聞かれてもいないのに口が動く。言い訳に似たそれに八枝は耳を貸さず、ただじっと卯月の携帯から目を逸らさない。
 気付いた卯月が八枝に目をやる。八枝は微かな声で呟いた。
「携帯電話」
「え?」
「持ってるんだ」
「まあ。……八枝は持ってないの?」
 頷いて、答える。「失くしそうだから」
「ふうん」それだけ返して、画面に目を戻しキーを叩く。八枝のことをどう説明するべきか迷った末(友達は親しすぎて、同級生は遠すぎる、女子だなんて姉に明かせるはずがない)、彼女のことを伏せて『今日遅くなる。帰り九時頃かも』と大雑把な情報だけを残した。
 メールを送信して携帯を畳んでも、やはり彼女の眼差しは右手のそれに向けられていた。卯月は少し考えた後、テーブルに備わった紙を抜き取り、鞄から出したペンを紙の上に滑らせる。
 綴られた十一桁の番号に八枝は興味津々だ。
「これ、俺の番号。なんかあったら電話して。いらなかったら捨てていいから」
「電話?」
「携帯がなくても、家に入れなくても、公衆電話なら探せばある。さっきの公園にもあったはずだし」
 そう告げて、紙を突きつける。八枝は戸惑った様子で受け取って番号を凝視し、何か思いついたようにテーブルの上に置く。そして制服のポケットから緑色のペンを出し、キャップを外して紙に滑らせた。
『うづきしろう』
 番号の下に綴られた緑色の名前。小さくて丸みを帯びた愛らしい字だった。
 卯月には行動そのものより、八枝が物を持っていたことに驚愕した。失くしそうだからと金を持ち歩かない彼女が一本のペンを携帯している事実に違和感を隠せない。
「そのペンは失くさないの?」単純な好奇心で尋ねた。八枝は応える、やはり無表情で。
「これは特別だから。絶対に失くさない」
「……物の管理、できるじゃん」
 軽く笑んで紙を自分のもとへ引き寄せ、片付けようとずっと握っていたペンをもう一度ノックする。
『卯月士郎』
 ひらがなの下に新たに書き加えた名前を、八枝はまじまじと見つめていた。

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