窓を叩きつけてくる大粒の雫にため息を零す。朝に見た天気予報では降水確率は三十パーセントだったはず。しかし現実は昨日から打ち合わせたかのような大振りだ。お陰で校庭が使えなくなり、二時間目の体育は男女共同になってしまった。女の体育着姿にはしゃぐ友や、偶然を装って接触を図ってくる女と過ごす時間はいつも憂鬱だ。だから卯月は雨を嫌った。
(あいつ、傘持ってきたかな)
 八枝を初めて目にしたのは、昨日のちょうど今頃だ。
 ポテトとジュースを食べ尽くした後、適当な雑貨屋に入り青りんごの財布を買った。彼女が唯一所有していたペンにもりんごのマークがあったので、りんごが好きと考えてそれを選んだのだ。五百円もしない安物だが、「あげる」と手渡すと宝物のように抱きしめ、離さなかった。
 別れ際、八枝が住んでいるらしいマンションに送った時も、先に言われてしまった。
「失くさないから」
 表情こそ変わらなかったが嬉しかったのだろう。耳にした途端、卯月は胸がくすぐったくなるのを感じた。
 今日はまだ会っていない。わざわざ会いに行く用事はなく、そしてそれは相手も同じだ。見かけたら挨拶しよう、それだけ。そもそも頻繁に会うような関係でもない。
 放課後を迎えたらあの公園を覗くつもりではあったが。
(放っておけないんだよ)
 八枝に対する感情に、卯月はそのような折り合いをつけていた。姉妹を持つ男の苦悩。保護欲。彼女に万が一のことがあったら、罪悪感に蝕まれるのは自分なのだ。きっかけは一目惚れに近くとも、今は違う。違うといったら違う。
 ぶるり、とポケットの中の携帯が身震いする。メールではないことを察してサブディスプレイを横目で見遣る。
――公衆電話――
 表記された文字に目を疑った。慌てて教室を飛び出し、話しやすい環境を探しながら携帯を展開した。
「もしもし?」
『うづき?』
 電話越しでも八枝だと分かった。肯定した後、念の為に「八枝だな?」と聞き返すも、その答えはない。
 人気の少ない階段、その踊り場に到着し、乱れた息を整えながら「八枝?」ともう一度名を紡ぐ。
『水無純(みずなしじゅん)とどういう関係?』
 返ってきた言葉がこれだ。
 その名前には覚えがあった。1−Dの水無純。夏休みが始まる前に想いを告げてきた同級生。いわゆる異性の関係になることを相手は望んでいたが、頑なに断った。おとなしそうな雰囲気を醸しながら面と向き合って告白する度胸があるのだ。尻に敷いて、こき使って、飽きて、捨てるに決まっている。平気な顔で自己満足に巻き込む女と共に過ごすなど、卯月には堪えきれなかった。
「どんな関係もない」
『本当?』
「ここで嘘吐いてどうする」
『じゃあ、うづきと私の関係は?』
 不意の質問に息詰まる。質問の意図が読めない上に、その答えも見出せない。昨日知り合って、危うい彼女の面倒を見て、帰りを送って、それだけだ。この関係をなんと称すればいい?
「そんなのこっちが聞きたいよ」
 精一杯の答えをなんとか吐き出して、そのまますかさず質問を投げる。「なんでそんなこと聞くの?」
 八枝ははっきりと言い切った。
『水無純に聞かれた』
「はあ?」
『うづきとどういう関係かって』
「だからって気にすること」
『水無純と私、どっちが好き?』
 八枝がしつこい。この話題にこだわることに、そもそも電話を掛けてきたことに多大な違和感がある。違和感に気付けても、どうして八枝がそこまで気にするのか。卯月には分からなかった。
 そもそも、どこから電話を掛けているのか。その疑問にようやくぶつかり、卯月は口を開いた。
「待って。直接話そう。今どこにいる?」
 校舎のどこかに公衆電話はあっただろうか。思考を巡らせている最中、八枝が場所を告げた。
『公園』
「お前、学校は?」
『今日は帰りなさい、って言われた』
 誰に? 何で? 湧き上がる疑問を追究しても仕方ない。強引に耳を塞ぐ。
「……財布、失くさなかったんだな」
 踵を返して階段を駆け降り、走り出す前に一声掛ける。ご機嫌取りのつもりだったが、対する八枝の反応は晴れない。
『でも、物の管理はできない』
「え」
『ペン――』
 つー、と通話終了の合図が耳を突いて頭が痛い。重くなる足並みはまるで音に圧し掛かられた様。脳の半分はひたすら混乱し、半分は呆然と白に染まる。腕は力なく垂れ下がり、首もかくりと落ちてしまう。うな垂れた世界、その隅に映る緑色のペンには見覚えがある。
 招かれたように拾い、観察する。キャップ式でりんごのマークが入ったそれは紛うことなく彼女の特別だった。
“卯月くん”
 顔を上げると、見たことのある顔があった。それと水無純の名前が一致するまでに時間は掛かったが、一致した途端、胸中に黒い感情が渦巻いた。
 突き放しても尚声を掛ける図々しさが、クラスメイトの八枝が早退しても尚微笑んでいる白々しさが、嫌悪を増幅させる。
“こんな所でぼーっとして、どうしたの? 八枝さんなら、今はいないけど”
 ここは1−Dの教室前で、ペンは廊下に転がっていた。
 絶対に失くさない特別がどうしてここにあるのか。何故今この瞬間に八枝の名前を口にしたのか。どうして八枝は水無と自分の関係を気にしていたのだろうか。
(お前が八枝に何かしたんだろうが)
 ひとつの仮説が脳裏をよぎると、彼女の笑顔が徐々に歪み、形を変えていくような錯覚に陥る。あの笑みは、自分と八枝、どちらに向けられているのだろうか。世界が眩む、全身が粟立つ、全てが彼女を拒絶する。
「気持ち悪い」
 正直に告げた。
「だからもう、近付くな」
 雨音に掻き消されそうなぐらい小さな、しかしはっきりとした否定の言葉が水無の胸にどう響いたかなど、卯月は興味ない。
 今は八枝が心配だった。

 鞄を抱えて学校を飛び出した頃には、雨は落ち着きを取り戻していた。まだ晴天には程遠いものの、傘を打つ雨粒は確実に弱まっている。
 水たまりにも構わず走っている為、靴も靴下もズボンの裾もぐちゃぐちゃに濡れて不快な音を鳴らしている。走り難いが、それ以上は気にならない。本当は傘も閉じて全力で走りたい所だが、鞄に詰め込んだタオルも使えなくなると判断して止めた。
 急いでいた甲斐があり、二十五分は掛かる道のりをわずか十五分で乗り切った。敷地に入っても、荒れた息を整える間もなく八枝の姿を探す。昨日のベンチ、公衆電話、屋根付きベンチ、遊具の下。それでも見つからないので止む無く公衆トイレを覗こうかと考えている時、土管を真似て作られた遊具に目が行った。筒状の空間にある奇妙な冷たさと狭苦しさは不思議な魅力があり、小さな頃は何度も遊んだ覚えがある。姉と喧嘩し家を出た時はそこに身を潜め、妹と遊んでいる最中に雨が降った時は慌ててそこに避難した。
(まさか)
 そっと近付いて、覗き込む。双眸はぱちりと開かれ、こちらをじっと見据えていた。
 頬の湿布がやけに目立つが、痛々しい様子はない。やはり無表情だから。
「うづき」
 八枝の声が反響した。膝を寝かせている彼女の髪は濡れて、ぺたりと顔に張り付いている。衣服も水を含んでいるがブレザーを着ているので透けることはない。
 鼠色の空間は彼女の周りだけ変色している。まるで天使の領域だ、と卯月は思うが、感動より先に心配がこみ上げる。
「濡れてるじゃん。拭けよ」
 屈んで目を合わせた後に乾いたスポーツタオルを鞄から取り出す。八枝はそれを見るや否や、小さく首を振った。
「いらない。それよりも」
「それよりも?」
「水無純と私、どっちが好き?」
「お前」
 今度はすんなりと言えた。先のやり取りで水無への嫌悪を強めたこともあるが、ここで即答しなければならないと直感したのだ。
 そして再び直感が告げる。まだあるぞ、と。
「私とうづきはどういう関係?」
「お前はどういう関係でいたい?」
 答えを求めてばかりいる彼女に突きつける。さすがに驚いたのか八枝は目を丸くした後、もごもごと言いよどんで俯いた。
「わから、ない」
 予想していた通りだ、と肩を竦める。
「そうだよな。分からないから聞いているんだよな」
「でも、ポテトとジュースをくれたり、財布をくれたり、一緒にいてくれたりしたことは、嬉しかった」
「そう言われると、俺も嬉しいよ」
 笑って肯定的に返しても、八枝はまだ言いよどんでいる。卯月はゆっくりと言葉を待った。
「でも」
「うん」
「好きになっていいのは、ひとりだけ」
 突拍子もない台詞だが、紡いだ彼女は真剣だ。迷いのない眼差しで卯月の瞳を見つめている。
「うづきは、私が好き?」
 首から上がずしりと重くなるのを感じた。感じた上で、しかと頷く。
「私が好きなら、私以外を好きになっちゃだめ。私も、あなた以外を好きにならない」
 しかし卯月の首肯は、八枝のその発言と比べればずっと軽かった。返事に迷い沈黙していると、催促するように彼女が続ける。
「好きって、そういうことじゃないの?」
 八枝の全てに嘘偽りがない。裏も表も皮も実もない。あくまで彼女は本気であり、だからこそ美しくて異質で特別だったのだ。それを察して、卯月は笑った。保護欲である筈がない。彼女は妹でも天然記念物でもないのだから。ならばこの愛情は、嘘偽りもない愛情だ。
「分かった。今までもこれからも、俺は八枝だけが好きだ」
 口振りは軽いが、卯月の本心から出た言葉だった。苦手としている女性の例外的存在、好きと呼ぶには充分な理由。
 不意に手を掴まれて、土管の中に引っ張られる。バランスを崩した体が八枝を巻き込んで倒れかけてしまい、すんでの所で踏ん張ったも束の間、八枝に唇を奪われた。
 鼻に付く湿布の匂い。ファーストキッスは味ではなく匂いがするものらしい。
「私も、うづきだけが好き」
 唇を重ねた衝撃と初めて目にする彼女の微笑みに、卯月の脳が沸騰する。頭を冷やそうにも、雨は既に止んでいた。

 互いに制服を汚した上、八枝は雨に打たれている。店に入ることはできず、八枝は自宅の鍵を持たされていない。公園に残るのはもっての外という判断から、卯月は八枝を実家へ案内した。
 家族は出払っていたが、好都合だと開き直った。家のバスタオルで水分を拭ってから上の妹のスリッパを履かせ、姉の服を八枝の着替えに使わせてもらう。
 八枝が姉のパーカーとパンツに着替えた後は手早く彼女の制服を洗濯機に放り込み、ブレザーを丁寧に手洗いする。そしてブレザーを居間に干して、ようやく卯月もジャージに着替えた。その間、八枝はやたら卯月のそばにいたがり、着替えの際は引き剥がすまで苦労した。
 着替えを終えて一段落すれば一服の時間だ。八枝を食卓の椅子に座らせて、母のティーカップに下の妹が好んでいる紅茶を淹れた。 「それで」
 自身の分の紅茶を用意してから自分の椅子に座り、八枝と向かい合う形になってから切り出す。
「あの女――水無純と何があったの?」
 卯月がずっと引っかかっていたことだ。
「昨日、一緒にジュース飲んでいる所を、誰かが見てた」
 着なれないパーカーを身にまとう八枝が、紅茶を冷ましながらぽつりぽつりと話し出す。
「それを聞いた水無純が、どういう関係なの? って。どういう関係でもないって答えたら、はたかれた」
「やっぱりか」
「保健室行ったら、大したことはないけど教室にいづらいかもしれないし、帰っていいよって」
「痛かった?」
「痛くない。でも……」
 微かにだが瞳に影を宿した八枝を目にして、ようやく卯月は思い出す。鞄の奥底に大切にしまったペンを八枝に渡す。
「これだろ?」
「あ……」
 瞳に光が戻る。
「廊下に落ちてたの、拾っておいた」
「ありがとう」
 頭を下げてペンを受け取り、大切に抱きしめる様は昨日の財布を連想させた。
「それ、誰かから貰ったの?」
 頷く八枝に、やっぱりと納得する。彼女は誰かからの貰い物を宝物にするのだろう。
「姉が昔に。私は赤りんご、葉月は青りんご、これでお揃いだって」
「お姉さんと仲良いんだな」
 悪気はなく、羨望も含めた上での発言だ。しかし八枝は俯いて、首を振った。
「昔は、そうだった」
「今は違うのか」
「姉さんと結婚した人が、私を好きになったから」
 一瞬で空気が張り詰め、重くなる。それは避けるべき話題で、彼女と接する上での地雷でもあった。言葉に迷った卯月が目を伏せると、紅茶に映る自分が見えた。端整だと褒められやすい顔は異性に気に入られることが多い。だが卯月は女性が苦手で、例外は八枝と家族だけ。例外といえば、八枝にとっての卯月もそうなのだろう。
 裏切ったらいけない、と心に刻み込む。
「八枝、手を出して」
「はい」
 何も考えず素直に伸ばされた手、それに自らの手の平を合わせて、指を絡める。
「お姉さんとかと、こういう風に手を合わせたことはある?」
「ない」
「じゃあ俺が最初だな」
 確認してから咳払いし、目を細めた。
「好きな奴以外にはしないからさ、お前もこういうこと、俺以外の奴とするなよ?」
 八枝も表情を綻ばせ「はい」と肯定し、より深く指を絡めた。
 互いに互いが唯一の存在で、それぞれを必要としていて、だからこそ手を合わせるだけで幸せに満ち溢れた。
 幸福は甘くて酸っぱいアップルティーの匂いがした。

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