ふたつのグーに押し切られた田熊は、パーの手のまま相沢から折りたたみ傘を受け取った。それを苦戦しながらなんとか広げれば、豪雨の中へとためらうことなく飛び出した。
「んじゃ、行ってくるー!」
荒々しい天気にしては元気すぎる挨拶を残して、ばっちゃばっちゃと水たまりを踏みつけ歩く。跳ねた雨水で制服の裾が汚れたのが遠目でもわかった。足元だけではない。かばんの底で忘れられていたくらい小さな傘など気休めにしかならず、あっという間に両肩が濡れている。なのにその背中はどんどん遠ざかり、見えなくなるまで時間はかからなかった。
この公園から最寄りのコンビニは、片道で五分もかからない。往復の想定時間に、品物を物色するおおよその目安を含めれば、待機時間は二十分前後といったところか。それまでは東屋の下で待ちぼうけだ。
相沢は東屋から外を眺めた。
公園の景色は、怒涛の雨で白くかすんでいる。いつもなら明瞭に確認できる備え付けの遊具も、どこか遠くて実体を感じにくい。まるで雨水がスクリーンの役割を果たしているようで、視界が幻に囚われたようで、とにかくそれは現実味がなかった。
遠い視界に対して、聴覚はいやに現実的だ。相沢を保護する屋根に、夜空の星よりずっと多い雨粒が、それぞれが石を穿たんとする勢いをもって、絶え間なくぶつかり爆ぜている。どれだけ耳をふさいでも、音の洪水はきっと防げない。うるさいそれらから解放されるには意識を逸らすしかなさそうだ。
ひゅう、と。不意に駆け抜けた風は全身の神経を余すことなく撫で尽くす。雨に打たれてこれでもかと水を吸収した制服が、それを受けていっそう体温を奪っていく。
ぶるりと体が震える。
「さむっ」
隣に立つ作田も体を縮こませていた。たまたまなのか、震えた相沢と同じポーズを取っている。
そういえば、こいつもいたんだった。当たり前のことを漠然と思い出した。
「ん、なんだその顔は」
気がついたらしい作田がまゆをしかめる。相沢は「いや」と首を振り、非現実的な光景に目線を戻した。
「……変な感じだな、と思って」
「変な感じ?」
「この公園、たまに来るでしょ? でもこういう風に見えたのは初めてだから、なんか、変だなって」
「そんなもん、雨だからに決まってるだろ」
「まあ、そうだよね」
「景色なんて時々によって変わるんだ。天気でも変わるし、季節でも変わるし、隣にいるやつによっても変わる。俺は君が隣にいるこの景色が世界で一番美しいと思う――なんて口説き文句があるぐらいだし」
「いつか彼女に使ってあげてね」
「おう。できたら紹介してやるよ」
とりとめのない会話を済ませて、ふたり並んで雨と向き合う。今頃田熊はどの辺にいるだろう。雨に惑わされて道に迷っていないことを願う。
悪天候の中で歩きたくないあまりにへりくつで丸めこんで田熊に行かせたが、身動きが取れず立ち尽くすだけというのもなかなかつらいものだ。
早朝の天気予報をしっかり気に留めていれば、長傘を忘れることはなく、こんな雨にもあわなかったのに。
いや、最大の失敗要因は、雨に降られて友人二人と避難してから、折りたたみ傘を持ち合わせていたことを思い出したことかもしれない。
「相沢!」
張り詰めた声で名前を呼ばれた。作田がどしゃ降りの先を人差し指で示している。指の先を目でたどったのはほとんど反射だった。
雨の中にそれはいた。
白くかすんだ遠い景色に、それだけがはっきりと存在していた。足を飾る赤い長靴以外は白いレインコートにすっぽり覆われている、てるてる坊主に似たそれは、すべり台の上で膝を抱えて空を仰いでいる。てるてる坊主は名前のとおり晴れを願うものだが、雨は一向に止む気配がない。どころかそれの存在は豪雨にもよくなじみ、それがいる限りはこの雨は止まないだろう、そんな錯覚さえ起こさせた。
「なんでこんな雨の中に?」
最初に出たのはそんな疑問だった。
作田は口元に手を添えて、声を飛ばす。
「おうい!!」
白い頭が小さく動いて、おもむろに東屋を捉えた。
「ここ! ここなら雨当たらないぞ!!」
すっぽり被ったフードの奥で、表情が明るくゆるむ。かすむ視界でもそれははっきりとわかった。
わかったといえば、それが発した声もだ。
「本当け!」
暴力的な雨音をいとも簡単にすり抜けてきた声は、幼さを感じさせる愛らしさと、はずみうねるような独特なイントネーションをあわせ持っていた。
すべり台からすべりおり、泥とまじった水たまりをぱちゃぱちゃと跳ね飛ばして東屋に駆けつける。一連の動作には慌ただしさがあったが、その理由は、フードを外した際にこぼれた少女の笑みが語っていた。
「おにいさんたち、ありがとなあ! まさかあたし以外の人がおるとは思わんくて、びっくりしたざ」
満面の笑みと、ごきげんな声色から、喜びがありありと伝わってくる。つられた作田も表情がゆるまった。
「いやいやいや、当然のことをしたまでだよ。いくら立派なレインコートを着ていても、レディをずぶ濡れのまま放置するわけにはいかないからね」
「おにいさん、お上手やな」
「女の子に優しくすること、それだけが俺の取り柄なんでね」
どうやらクラスメイトの女子生徒に傘を貸したせいで雨に打たれたことを後悔していないらしい。今その話題を出しても、だからこそこの子と出会えた、なんて調子のいいことを言い出すに決まっている。だから相沢は沈黙して、代わりに少女を観察した。
髪はブラウンがかった明るい黒で、大きな瞳も髪と似た色をしている。その肌はとにかく白く、びしょびしょに濡れても透けていないことに違和感を覚えるぐらいだ。年齢は小学生ほどだろうか。成長期を迎え終えて間もない自分たちよりも年下なのは明らかだ。
こんな雨の中で、ランドセルや傘という荷物をなにひとつ持たず、たったひとりで公園にいた。レインコートと長靴だけの、雨がよく似合う、不思議な少女だ。
「おにいさんたち、ずっとここにおるんけ?」
こてんと首を傾ける少女に、答えるのはやはり作田だ。「いーや!」と大ぶりに手を動かす。異性の前だと動きが仰々しくなる癖は、年下にも発揮されるらしい。
「ずっとじゃないよ、今さっき来たばかり。今はクマ――あ、田熊っていう俺たちの友達でかわいいやつね、そいつが傘を買いに行ってるから、待っているところなんだ。あ、今から連絡を取らないとね。傘をもう一本追加と、君好みのあま〜いチョコレートを買ってきてほしいってね」
「かさ?」
「俺たちみんな持ち合わせていなくてね、そこでこの豪雨だからさあ大変だよ。運よく相沢――あ、このずぶ濡れダサ男くんね、こいつが折りたたみ傘をたまたま持ち合わせていたから、三人のうちひとりがそれ使って傘を買いに行くって話になったの。で、ここにいないクマが傘を買いに行く役、俺と相沢がそれを待っている役」
「そうなんけ。じゃあクマさんがかさを買ってきたら、おにいさんたちとはお別れなんね」
心なしか雨脚が強くなる。天候が少女の心に寄り添っているようだ。
しかし作田はまぶしく笑った。ひとりだけ日光が照っているかのごとく、笑った。
「そんなことないさ。クマが戻る前に空が晴れればいい。そしたら一緒に公園でかけっこできるかもしれないじゃないか」
「空、晴れるんけ?」
「ああ。止まない雨はないからね、終わらない悲しみがないように!」
まばゆい語調で希望を語る作田に反して、少女は呟いた。
ぽつり、と、屋根をつたい落ちる一滴の雫のように。
「でも、あかんわ。あたし、雨しか知らんもん」
「え」
「晴れてる空をな、忘れつんたんや」
乱暴な雨音は鳴り止まない。ざあざあざあ。その音が、鼓膜を突き抜けて脳を通り抜けていく。
ぽかんと開けっ放しの口は閉じず、二の句が継げず、だけど雨の暴力に似た演奏は止まらないでいる。
少女は笑みをつくろった。まゆを八の字にして、たははと。
「おかしいこと言うてもて、ごめんなあ」
「い、いや、おかしくない! 変じゃない! こっちこそなんか変な反応でごめん!」
慌てて謝罪した作田が、「えーとつまりだな」と思考を巡らせながら少しずつ切り出す。
呆然としている相沢を置き去りにして。
「ええと、君は雨女? なのかな? なにかと雨の天候に巡り合いやすい女性みたいな」
「んー、そうなんかもしれんのう」
「ま、ここら辺も雨が多い土地だもんな。晴れている日のほうが珍しいってのは確かにあるかもしれない。だから、なんら特別じゃないしおかしいことはないんだ!」
「……おにいさん、優しいなあ。ええと」
「作田良太、りょうくんでもりょーたくんでもさっくんでもお好きなように」
「じゃあ、りょーたくん。あたし、りょーたくんに会えてよかったわ」
雨脚が弱くなる。なのに雨はまだ止まない。
気をよくしたらしい作田はごきげんだ。
「こちらこそだよ!」
軽い調子で少女の両手を取り、にかりと歯を見せる。
「俺も、君に会えてよかった。こんな素敵な雨宿りは後にも先にも今日だけだ。今なら本気で思えるよ、君と一緒ならどんな雨でも平気だ、ってね!」
ぶわり。
吹きつけた強風に、相沢は体を震わせた。
今度は作田は同じポーズを取っていない。どころか震えた気配すらない。
急激に全身を、頭の中をも冷やしていく悪寒は、はたして、どこからやってきたものだろう。
「……本当け?」
かすかに少女は震えていた。しかし、それはきっと寒気でなく、たかぶる感情を抑えこむために震えている。口元がゆるんでいるのがその証明だ。
「あたしと一緒なら雨でも平気やって、それ、嘘やのうて?」
「嘘なもんか。何度でも心をこめて言えるさ」
「じゃあ、もっぺん言うて」
「君と一緒なら雨でも平気だよ」
風はどんどん強くなる。それでもふたりが、作田が凍える気配はない。
なにかがおかしい。直感した相沢が口を動かそうにも、凍ったように、動かない。
「あんな、りょーたくん。頼みがあるんやけど」
「なになに? なんでも聞くよ」
一拍間をおき、そわそわと目先を泳がせてから、息を吸い、言う。
「あたしと一緒に、海に行ってくれんけ?」
海。
小さな唇が発したそこは、ここからあまりに遠い場所だ。
「おお、デート! 出会ってすぐデートの約束つけられるなんて、さすがの俺もびっくりだよ」
「約束やのうて、今からや」
「うわあお、お熱いアプローチ。そんなに焦らなくてもいいんじゃない?」
「はよ行きたいんで、のんびりしてられんの!」
今までにない荒れた口調だった。
作田は若干唸った後に「大事な用事?」と尋ねる。のんきな雰囲気からぶれない作田に反して、少女は切迫した表情で首肯した。
「海ではな、よお眠れるんやって。あたし寝不足やで、そろそろぐっすり眠りたいんや」
「眠りたいなら、布団やベッドでいいんじゃないの? 必要なら俺の膝も貸してあげるよ?」
「あかんのや。目ぇ閉じたら、おっきい鳥の声が聞こえて、よう眠れんのよ」
「大きな鳥?」
「土の下からな、ぎゃーすかぎゃーすか、ひっでもんにやかましいんよ。眠ろうとしたときに特に聞こえるってだけやで、今でも耳をすませば聞こえると思うわ。あたし、その声が苦手でな、あんなかで眠るなんて拷問みたいなもんやざ」
相沢は凍えた耳を研ぎ澄ます。鼓膜を響かせる音は、雨と、風と、ふたりと自分から発せられるものだけだ。
彼女の言うことが本当で、それが本当の鳥ならば。そもそもこんな天気では鳴くどころかまともに飛ぶことも難しそうだ。
「ほやけどな」
少女の声色が明るい方向に切り替わる。もしかすれば、作田たちを見つけたときよりも明るいぐらいだ。
「海やと、その声が届かないんやて。ほやから、ゆっくり眠れるかもしれんのや! あたし、一度でいいから誰にも起こされずずっと眠ってみたいわあ」
「……それに、作田は必要?」
冷えた体では、小声を絞りだすのに精一杯だ。それでも問わざるを得なかった。見過ごしてはいけない気がした。
少女の視線が初めて相沢に向けられる。「相沢?」とささやくように作田がこぼすのを聞いた。
「海へ行くのなら、作田がいなくてもいいんじゃない?」
「あたしひとりやと道に迷うし、なによりひとりやと、ちびっとさびしいでの。ほやからりょーたくんに、ついて来てほしいんや」
「どうしても?」
異様に食い下がる己を自覚したのは、それを発した後だ。
そうして、こちらを凝視する少女の眼差しの愛らしさと、含まれた一点の冷たさにも気がついた。
「……まあ、おにいさんでもええんやけどの」
それは、氷像だった。外見こそ可憐でも、むやみに近づけば冷気に当てられてしまう。触れるなんてもってのほかだ。触れたら最後、手がくっついて離れなくなってしまう。
強い風が吹きつけた。鳥のさえずりとは到底似つかない音色をびゅうびゅう奏でて、絶えず相沢に衝突する。それにより制服が吸った水分が冷たい刃になって、彼の全身をくまなく突き刺した。
現実的で暴力的な雨の轟音は収まらず、寒気とあいまっていっそ恐怖を駆り立てるほどだ。奥歯ががちがちと鳴り出さなかったらいよいよ雨音の洪水に流されたかもしれない。
流されたといえば、東屋そのものが流されてしまったのだろうか。降り注ぎ飛び弾ける雨水のスクリーンによるものか、景色を覆う白いかすみが一層濃くなり、すべり台も確認できない。現在位置がいつの間にか変わっていたと思わなければ納得するのが難しいくらい、東屋の外は非現実だった。
「よいしょっ」
再びフードを被った少女が、非現実に一歩踏み出す。赤い長靴でぴちゃんと鳴らして、舞うように振り向きにこりと笑う。
作田に、笑う。
「りょーたくん、はよ行こっさ。一緒に海まで歩くんや」
相沢は作田をうかがった。毛の先まで震えている相沢とは違い、やはり凍えている気配はない。
平然と、曇りのない顔で「おー」と手を挙げる友人の、あまりにのんきな姿といったら。
「作田」
すがるようにして彼の制服の裾をつかみ、その名を呼ぶ。応えるように眼差しを返した作田は、きょとんと目を見開いた。
「どうしたんだよ相沢、寒いのか?」
なにもわかっていない彼に教えたかった。なにも知らないなりに忠告をしたかった。
行くな。
それだけの言葉が、出てこない。
最初はぱくぱくと動かせた口も、腹から出てくる息の熱さに驚いてしまえば、やがて奥歯を鳴らすことしかできなくなってしまう。突き刺さる冷気に抗うため全身を震わせてもなにも変わらない。呼び止めておいて、凍えていることしかできない。
なにかを考えた作田がおもむろに両手を伸ばし、相沢の頬に触れる。
頬は確かに触覚を働かせたが、それは、熱くも冷たくもなかった。
「もうすぐクマが戻ってくるから、それまで辛抱してろよ」
違う、そうじゃない。
言葉はやはり、出てこない。
「俺は、あの子について行くから」
にかっ。太陽を思わせる笑顔で告げて、頬に添えた手を離す。
作田めがけてとっさに手を伸ばす。なにがなんでも引き止めなくてはならなかった。だが吹きつけた強風と、一面を隠す真白な光が妨害に入り、視界を取り戻した時には、作田は東屋の外に立っていた。
傘も差さず頭も守らず、雨に全身を晒した状態の作田は、てるてる坊主に似た少女と手をつなぎ、かすみの彼方へ消えていく。
間に合わない。
だけど。
慌てて足を踏みだそうとした刹那、まるで割りこむように、相沢の目前に物が飛んできた。
広げた状態であちこちの骨が折れているぼろぼろの傘だった。
滑るように現れたそれは、強風に煽られてくるくる動いた後、引きずられるように去っていく。突然の乱入に足を取られ、気がついたときには、東屋の下にいるのは相沢ひとりとなっていた。
寒い。未だに生じている感覚だが、先ほどと比べてだいぶ穏やかだ。自身を包みこみ、撫でるような寒気に、刃に似た攻撃性は感じない。
雨音もどこか落ち着きを取り戻し、代わりとばかりに雷音が轟いた。やけに長く響いているが微かな音で、ずいぶんと離れた位置に落ちたことは明白だ。
相沢はかすんだ景色の向こうにある遊具を眺めた。すべり台の上には誰もいない。今度からはそこに誰かがいても声はかけないようにしよう。
今から気を引き締めても、きっと作田は戻ってこない。確信はないが、そんな気がした。
公園で遊ぶようにせわしなく転がっている傘をにらみ、自身を呪った。
ああ、傘を忘れていなければ。