幼なじみが髪を切った。
 肩甲骨を覆い隠すほど長い髪の、その毛先まで丁寧に明るい色で染め上げて、毎日のように髪型を変えて遊んでいた彼女が。手間暇を掛けて大切に扱い、かつ気に入っていたらしいのに、いきなり、ばっさりと。

「どう思う?」

 問われた麻弥美がぴたりと止まる。ハンバーガーにかじりついたまま、眼鏡の奥の目をゆっくり瞬かせた。
 その後も大きな反応はなく、問うた孝治も困り果ててしまう。日の暮れかけた頃合いのハンバーガーショップ、学生で溢れかえった店内は静寂とはおおよそ無縁だ。もしかしたらはっきり聞こえなかったのかもしれない。ならば、と口を開きかけた時、麻弥美は小さく首を振った。
「いい、らいひょうふ」
 不明瞭な発音で二度目の説明を拒むと、慌てて咀嚼を始めてジュースで喉奥に流し込む。その忙しない様子が孝治には不可解だったらしい。
「そんなに慌てなくてもいいのに。どうかした?」
「別に。ちょっと、ピクルスが思ったより酸っぱかっただけ」
 眉間に寄ったしわに、孝治が気付くことはない。麻弥美も気付かせるつもりはない。すぐに身を乗り出して頬杖をつき、出てきた人物の名をなぞる。
「にしても、市川さんが。今日は見てないから分からなかった」
「本当、ばっさりだよ。首に掛かるかどうかってくらい。かずかの髪があんなに短いの、初めてかもしれない」
 孝治と彼女は物心つく前からの付き合いだと、何度か聞いたことがある。笑顔が似合う快活なムードメーカーは、別のクラスに属している麻弥美から見ても目立つ存在だ。その性格を連想させる明るい色の長い髪は、チャームポイントだとばかり思っていたのに。
 話を聞いても尚、短髪の彼女が想像できない。できないので、軽く流した。
「で、それがどうかしたの?」
「だから、麻弥美はどう思う?」
「どう思うって聞かれても。驚いたのは確かだけど、それだけよ」
「そう」
「私からすれば、孝治くんがどう思っているのか気になるところだけど」
「……何か理由があるのかな、って」
「それはどうして?」
「いきなりだったから」
「女ってのは、ある日突然思い立つものよ」
「それならいいんだけど、そうとは思えないんだ」
「あら珍しい」
「何も聞いていなかったから」
「何もって?」
「いつもなら、どの髪型がいいかって聞いてくるのに」
「……はい?」
 また眉間にしわが寄る。ピクルスなどかじっていないのに。
 目の前の顔が引きつった事実を認知しないまま、孝治は「大体ショートにしろなんて言ったことないし」と不服の表情だ。知らない情報に麻弥美はひとり混乱する。
「えっと、何それ」
「メールが来るんだよ。毎日、夜に。明日どうすればいい? って」
「どうすれば、って? 髪型?」
「髪型もだけど、弁当の中身とか。酷い時は休日の服も選ばなきゃいけない」
「いつから?」
「携帯を買ってすぐだから、中三の頃から」
 聞いてない。くすんだ不満が麻弥美の胸に表れて、間もなく四散した。
 そこを突き詰めたら話は終わらないと知っている、麻弥美は馬鹿ではない。咳払いをして、半ば強引に意識を本筋へ戻す。
「聞いてないってことは、昨夜にその旨のメールは?」
「来てない。ここ半年は毎日来ていたのに、昨日だけはなし。それで朝、学校で会ったら髪ばっさり」
「その時、市川さんに聞かなかったの?」
「ちょっとね、の一点張り」
「はぐらかされましたか」
「はぐらかされました」
 ストローをくわえてジュースをすする孝治の目には、焦りや困惑といったマイナスの感情は含まれていない。想像の放棄だ。相談せずに黙って髪を切った理由は引っかかるが、それを自分で見つけるつもりがない。分からないなら尋ねればいい、というのが孝治の常だと麻弥美は知っていた。
 麻弥美は口を閉ざし、孝治もジュースを飲むばかり。麻弥美の答えを待っているのだ。案の定だと麻弥美は呆れる。頭の悪い男は、頭の切れる女を頼る。それが意識的な行いかどうかは賢い女でも見抜けないが。
「そうね。髪は女の命、って、出尽くされた文句があるの。特に市川さんは髪を大切にしていたから、それを切ったってことは、確かに何かあるかもしれない」
 それこそ命を、心を絶たざるを得ないことがあったのかもしれない。麻弥美自身はとても同調できないが。
「……それで、これもまた出尽くされた文句なのだけど。女はね、失恋したら髪を切るんだって」
 命を絶つこと、で思い浮かんだことを何気なく口にしたら、ようやく孝治が目を丸くした。ストローから離れた口が弱々しく繰り返す。
「失恋?」
 麻弥美は平然と頷いた。
「漫画やドラマの話かもしれないけど、気分転換としては有効な手じゃない?」
「そういうものなの?」
「分からない。というか、本当に失恋かどうかも怪しいでしょ。私が好き勝手言ってるだけだから」
「あー、でも、かずか、彼氏いる」
「……いるでしょうね。だったら、その彼氏さんとの関係が悪くなったのかも」
 例えば、彼氏に向かって幼なじみである孝治くんの話ばかりしたとか。
 頭に浮かんだ皮肉は、音にならず飲み込まれる。明日にお腹を下さないか、脳裏によぎった可能性が杞憂であれと宛もなく祈る。
 そこで、ストローを弄んでいた孝治の右手が動いた。かばんを開けて中から取り出したのは時代遅れの携帯電話。
 流れた冷や汗に突き動かされるように、麻弥美は手早くそれを奪い取る。為す術もなく手ぶらになった孝治は、ただ呆然と麻弥美を眺めた。
「どうしたの?」
「こっちの台詞よ。携帯で何をするつもり? まさか、破局した? なんて聞くわけないよね?」
「……じゃあ、文面変える」
「言っておくけど、今までの会話の件は入れちゃだめ。あくまでさり気ないものにして」
「分かった」
 携帯を返すと、すぐさま入力を始める。手馴れたキー操作と短い文章により、一分も経たないうちに携帯は閉じられた。
「なんで切ったの、って、それだけ送った」
 麻弥美が本文を尋ねるより先に、孝治がポテトをつまみながら言う。簡潔な質問に対する答えは大抵が簡潔だ、それを知っている麻弥美には、返信を予想するのは簡単だった。想像を放棄した男にそれができているかは不明だが。
「もしも本当に彼氏と別れたのなら、今頃へこんでいるのかな」
 孝治が発した何気ない、何でもない口調が紡いだ内容は想像を放棄した男にしては珍しい。メールを送ることもそうだが、孝治が他人を心配する様は麻弥美にとっては新鮮だった。
 それも長い付き合いの為せる業だろうか。自分には到底届きそうにない。
「心を通わせた人と別れるってのは、なかなか堪えるものじゃないの?」
「やっぱり?」
「出会ったことから後悔しちゃうかもね。不毛なことだけど」
「もしも出会えていなくても、それはそれで幸せだったのかな」
「私はそう思う」
 だって孝治くんがいるからね。そう続こうとした言葉は、震える携帯により打ちとめられる。
 孝治が携帯に手を伸ばすのも、画面を確認するのも、返信を入力するのも速かった。一連の動作を終え携帯を閉じるまで、やはり一分も必要ない。
「……市川さん、なんて?」
「はぐらかされました」
 予想が当たってもくすりとも笑えない。おかしいが、面白くない。奇妙な矛盾が麻弥美を巣食う。
「じゃあ、なんて返信したの?」
「短いの似合わないって」
「……孝治くん。女の子の変化にはとりあえず肯定するべきよ。それが大々的なものなら尚更」
「だって、似合わないって思ったから」
「もっと言い方があるでしょ」
「……分かった」
 口を尖らせて目を伏せる様は、落ち込んだ風にも取れる。良くも悪くも軽薄な孝治にしては珍しい姿だった。
 今回の件はそれだけ彼の中で響いているのだろう。或いは、幼なじみである彼女がそれだけ特別な存在であるか。
 だとしたら、自分は特別な存在に値しないのか。手を重ねて店を訪れ、同じテーブルで食べる仲なのに。――否、長い時を過ごした間柄に勝てないことは分かっている。麻弥美は賢く、そして寛大だ。
 携帯が震える。今度も動作は手早かったが、キーを入力する前に少し悩む素振りを見せた。そのまま携帯を畳めばいいのに、と麻弥美の脳裏に過ぎるいじわるな考えなど知る由もなく、孝治はやはり何かを入力してからぱたんと畳む。
「似合わなくていいじゃん、って来た」
「まあ、取り返しつかないものね。それで、なんて送った?」
「長いほうが好きだった、って」
 起伏の薄い平べったい表情で、さらりと告げた。
「……ふうん」
 膝の上の拳は震えて、左胸もばくばくと体を殴ってくる。それでも麻弥美は冷静を装った。
 もしもここにはさみがあったなら、この髪を切っていたかもしれない。彼女に比べたらろくに手入れもしていない、命よりずっと軽いボブカットに、心と引き替えに絶つほどの価値もない。実際、失恋だ破局だで髪を切るのも馬鹿馬鹿しい。ただ、それによって孝治の表情を変えることができるなら、好きだったと言わせることができるなら。
 それともやはり、それは彼女だけのものだろうか。彼女だけに見せる唯一の彼なのだろうか。或いは、その唯一こそが彼の素面で、自分は彼を知らなかったのか。
 気を緩めると泣き言を発しそうな口を、ハンバーガーで蓋をする。口内いっぱいにピクルスが広がった。
「……麻弥美。返事、あれでよかった?」
「…………うん、じょーとー」
 咀嚼を終えて肯定すると、孝治は口元を緩ませた。安堵が顔からにじみ出る。
「ならよかった。反応がいまいちだから、やっちゃったかと思って」
「ああ、ごめんね。ちょっと考え事してて、気が抜けてた」
「考え事」
「孝治くん」
「うん」
「あなたがあなたでいられる場所はそこしかないのね」
 想像を放棄しているうちは通じない言葉だろう。事実、孝治は耳にして尚、首を傾げている。
 麻弥美は続きを語らず、もう一口バーガーをかじる。羨ましいと素直に告げたらいけない気がして、言葉でごまかし口を塞ぐ。
 ピクルスが詰まったバーガーは酸味が強くて、ちっともおいしくない。

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