「告白しよう」きっかけは何もない。あえて言えば軽い気持ちだった。
 あっという間に二月の末日、あと一ヶ月と半月経てば二年に進級する。進級した上で一年次と同様に退屈な日々を送るのはごめんこうむりたく、ならば今のうちに行動を起こすべきだと、田井中は思い立ったのだ。
 唐突な決意を耳にした席の近い友人たちは、下校の支度を続けながらもそれぞれの反応を示した。坂里は嘆息で、松崎はへらりと浅い笑み。「意欲的だな。どんだけ飢えてんの」表情によく似合う浅い言葉に、返す台詞はひとつだけ。「馬鹿」
 膨らんだスクールバッグのファスナーを滑らせて、教室を見渡す。ターゲットはまだ残っていた。妙にもたもたしているが、自分たちと同じく帰る支度をしているらしい。
「うまくいったら、今日は僕抜きで楽しんできて」
「ほいほーい」
 手を振る松崎と、もう一度息を吐く坂里。二人に見送られながら、田井中はターゲットに接近した。
 大谷ひすい。授業以外で男と話している姿を見たことがないので、フリーと推測。顔はまあまあ可愛くて、口調はなんとなくまったりしていて、いつもなんとなくぼんやりしている。不思議と掴めない空気をまとっているが、だからこそ興味があった。言葉を交わしたことは授業内の数回しかないが、それがどうした、これから会話を増やせばいい。異性と会話慣れしていないが、女っ気もなければ部活動で汗も流さない退屈な高校生活とおさらばできるなら、必要となる度胸なんていくらでも用意できる。
「大谷さん、ちょっといいかな」
 荷物を詰めていた大谷が、手を止めて田井中を見遣る。真正面に教卓がある彼女の席は、教室のど真ん中にあるといっても過言ではない。下手に長引かせると注目を集めてしまいそうだ。続く言葉は焦燥を含んでいた。
「この後さ、暇?」
 目先にある大きな瞳が、ぱちくりと瞬く。それからまじまじと田井中を観察するように眺めるが、答えは一向に返ってこない。出すべき言葉に迷っていると、大谷が不意に首を傾げた。
「どうして?」
「……ちょっと、話がしたいな、と思って」
 イエスかノーかの判別もつかず、とりあえず返ってきた疑問に応える。本当は一緒に繁華街でも行けないかと思って尋ねたのだが、これも嘘にはならないはずだ。語弊はあるかもしれないが。
 大谷はやはりまったりと田井中の発言を咀嚼して、挙げ句、考え込んでしまった。田井中としては早く返事がほしいところだった。そうしないと、ざわめき出す周囲が何を言い出すか分からない。
 否、もう手遅れらしい。三つ編みを揺らしながら寄ってきた平が、大谷に耳打ちをし始めた。何を伝えているのかはおおよそ予測がつく。こちらからすれば余計なお世話でしかない情報だろう。
「……田井中くんは、私が好きなの?」
 ほらやっぱり。体温が下がり、頭の中のプランが音を立てて崩れていく。平は田井中を見遣り、にこりと笑んでいた。決まっていた順序を踏みにじった罪悪感は、その表情からは窺えない。ざわめきが大きくなり、視線も集まってきた。異性と会話する度胸はあっても、大勢のクラスメイトから注目される中で告白めいた真似をするのはどうにも気後れする。頷くことすら困難で、惑う口は頼りない母音を零すのみ。必死に適切な台詞を探していると、目の前のぼんやりした瞳がもう一度ぱちくりと瞬いて、そして。
「それは――」
 小さな口が開く。

「――星の意志によるもの?」

 ぴしりと、全てが硬直した。
 よぎる静寂、凍る空気。質量のある刹那を迎えて、変わらないのはただ二人だけ。ぶふっ。空気が噴出した後に、くつくつと声を堪える音が続く。この空気で平気で笑えるのはクラスの中でも松崎ぐらいだろう。彼の失笑を皮切りに、刹那がゆるやかに去っていく。
 クラスメイト共々思考を取り戻した田井中の双眸が見開いた。たらりと頬を伝った汗。ほしのいしによるもの、とは? 頭の中で何度繰り返しても語意を認識できない。ほしといえば、なんだ。目線を窓に移すと、穏やかな青空が見える。あと二時間も経てば日が沈んで月が輝き、数多の星が瞬くだろう。彼女が口にした星とは、一体どの星を指しているのか。いしに関してはいよいよ理解不能だ。ほしのいしといえば、思いつくのは隕石ともうひとつ。
「月の石のこと?」
「違うよ」
 否定は早い。この反応は見越していたので大したダメージは負わなかった。ここで肯定されたほうがずっと楽だったと思わざるを得ないが。
「星っていうのは地球で、意志っていうのは考えとか、気持ちとか、そういうの」
 脳裏に改めて浮かぶ正確な綴り。消しごむで消そうにも早々にこびりついてしまったらしい。
「ああ、そう。それで星の意志ね。なるほど、すごいね」
「田井中くんが私を好きなのは、星の意志によるもの?」
 戻ってきた質問にめまいがする。田井中には何も分からなかった。星の意志とはなんなのか、彼女への好意がそれによるものなのか、彼女が何を思い、何を考えているのか。分からないから、何も言えない。はっきりしていることは、星を背負って誘ったつもりはないという一点だけ。
 一層大きくなったざわめきの中に、嘲笑も含まれ始めている。胸が抉られる痛みと共に、あの中に混ざりたいという感情が顔を出した。膨大なスケールの問いかけに振り回されず、他人事のように眺めていたい。松崎と一緒に笑っていたい。
 だが、大谷の話し相手は自分で、自分が彼女と話をするしかない。こくりと息を呑む。
「確かに僕は大谷が気になっているけど、それが星の意志かどうかは、正直……」
 ぐふっ。再び耳につく噴出音。薄情な彼が、何故だか今はとても恋しい。隣で呆れ返っているであろう坂里もだ。
 正面の大谷が、大きな目を伏せてしょんぼりと眉を下げた。「そう」見るからに悲しんでいるが、泣きたいのはこちらも同じ。教室の真ん中で、告白を前提としたお誘いをしたら、星だの意志だのと電波じみた言葉を真顔で返されて、理解できないと伝えたら相手を悲しませた。笑い声は止まらない。これではまるで晒し者だ。逃げ出したい衝動がしきりに胸をつついている。従ったらそれこそみっともないけど、しかし限界は近そうだ。
 伏せていた眼差しを持ち上げた大谷が、ふわり、柔らかい微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
 ――限界だった。
 胸を貫いた衝動に従い、大谷に背を向ける。周囲の声に耳を塞いで、自分の席に置いたままだったかばんをふんだくり、教室を飛び出した。不慣れな前傾姿勢で駆け、足がもつれ転んでもすぐ起き上がり、感情に身を任せて外を目指す。こんなに全力で走ったのは生まれて初めてかもしれない。呼吸が不規則になり肺が悲鳴を上げても両足は止まらない。履き替えた靴のかかとを踏み潰し、忙しなく校門を飛び出して、追っ手はないかと振り向いた時にふと思い出す。
 大谷の微笑みは優しく、しかし悲哀も含まれていた。そんな笑顔を向けられた自分が、させた自分が情けなくて、どうしようもなくて、恥ずかしくて、居たたまれなくて、足が勝手に動いてて。今にも暴れ出しそうな強い感情にあてられ、呼吸がぜいぜいと乱れた。こんなに肺を刺激したのはいつ以来だろう。マラソンの後よりもずっと苦しい。心臓がばくばく鳴いている。

☆☆☆☆☆

 田井中をせせら笑うように吹いた風は、彼の肌を粟立たせた。ここ数日は過ごしやすい気候だったといえ、黄昏時の風はやはり堪えるものがある。スプーンをくわえたままぶるりと体を震わせた田井中は、落ち着いてすぐにプラスチックのカップにスプーンを戻す。
「プリン飽きた」
「早いな」
「だって風吹いたし、寒いし、ぬるいし。松崎、あんまんとって」
「ほい」
 広々とした自然公園の大きなベンチに腰かける三人は、コンビニで購入した食品を堪能していた。中央には田井中が、両脇にはそれぞれ坂里と松崎が座る。ビニール袋は本日の脇役の膝の上にそれぞれ置かれていた。
 時間があればコンビニに寄って公園で適当に駄弁る、それがお決まりの放課後だった。田井中が大衆の面前で玉砕した今日も例外ではない。田井中に言わせれば、今日はこの公園に寄るつもりはなかっただろうが。
 坂里が奢ってくれたプリンをベンチに置いて、松崎が奢ってくれたあんまんをかじる。今日の駄弁りは暇つぶし以外に田井中を励ますことが目的とされている。よって主役である彼は今日に限り一切出費していない。悪いとは思うが、自分の好む甘味食品を黙って買ってくれた二人の優しさに素直に甘えることにした。
「……うまくいったら、今日は僕抜きで楽しんできて。だっけか? いやー残念だったな、失恋後のあんまんはおいしいか?」
「うるさいな。まさかこうなるなんて思わなかったんだよ」
「まあ、俺も、うまくいかない可能性はあるにしろ、ああいう切り返しが来るとは予想外だった。みんな唖然としてたぞ。ひとり笑ってたけど」
「そうだ。あれって松崎、お前だよな?」
「はい俺でーす。本当は大声で笑い飛ばしたかったんだけどさ、一応空気読んで堪えてみました」
「お前が振られたらその時は笑ってやる」
「恋なんてするつもりないんで、ご心配なく」
「田井中、そいつに何言っても無駄だぞ」
「分かってるけど」
 苦々しく呟いて、もう一度あんまんをかじる。松崎はやはり笑って、坂里は未だに嘆息している。どちらもそれぞれによく見られる反応だった。厚かましく軟派な松崎は田井中の失態をけらけら笑うだけだが、実直かつ硬派な坂里は苦言を呈する役に回りやすい。今回はまだそれを頂戴していない。そろそろ頃合いだろうと推し量り、坂里を横目で窺う。案の定、おもむろに口を開き始めた。
「明日、ちゃんと謝っとけよ」
 あんまんが喉に詰まった。奢ってもらったミルクティーでそれを流し込んで、返す言葉を探してみる。それが見つかる前に、同じ声が続いた。 「あそこで逃げ出すのはまずいだろ」
「……分かってるし、謝るつもりだったよ」
 ようやく探し当てたそれを吐き出す。紛れもなく本心で、言ったことも本当だが、彼の後押しはありがたい。これで明日の逃げ道がなくなる。
 あまりにみっともない姿を晒してしまった事実を思い出して、不安がぞわりと背筋を這う。
「大谷、何か言ってた?」
「いや、特に」
 坂里の答えはあっさりしたもので、不安が抜けて肩が落ちる。
「お前が逃げてすぐ、とっとと支度して帰ったよ。何人かに話しかけられてたけど、普通に受け答えしてた」
「……普通に?」
「普通に」
「話しかけられたって、笑われたとかじゃなくて?」
 眉を顰めた田井中に対し、坂里は同じ表情を浮かべた。
「それでもあいつは、普通に受け答えしてたよ」
「笑おうとした奴らがどん引きしたぐらいには、普通だったな。『田井中くんには星の意志は聞こえないんだね、残念だねー』って話しかけた女に向かって、『私も聞こえないよ。あなたには聞こえるの?』だってさ。もー俺、大谷気に入ったわ。面白すぎ」
 補足した松崎がけらけら笑う。
「あいつ、あんな顔しときながら大真面目に宇宙ちゃんみたいだわ」
 もう一度ミルクティーを口に入れた。こくりと喉が鳴る。
 普通と聞いた時は耳を疑った。大衆の注目に晒される中に置き去りにして、それでも普通に振る舞えているなんて正気の沙汰じゃないと。だが大谷にとっての普通は、田井中含む他人にとって不可思議そのものだった。当然のように星だの意志だの語って、その意識が相手にある前提で話を進める。聞き手からすればたまったものではない。松崎の蔑称じみた呼び名がしっくりくるぐらいには彼女の思考回路は理解不能だ。
 そんな女だと知っていたら選んでいなかったと後悔してもどうしようもない。もっと相手を選べばよかったと口にできるほど田井中は薄情な男じゃない。
 あえて言うなら。
「もっと考えてから動けばよかった」
「いつものことだな」
「いつものことじゃん」
 異口同音できっぱり告げられる。自覚がある分、苦笑を浮かべるのが精一杯だった。
 向こう見ずで行動するのは、彼らが言うようにいつものことだ。そして毎回失敗するたびに後悔する。もっと頭を使ってから動けばよかった。今回も例外ではなく、田井中は大谷について何も知らない。何も知らないなりに、一片の興味とわずかな打算で目を付けて声をかけた。知らなくても、これから知れると思っていた。これからというのは、明日からか。今日からか。
 空を仰ぐと、既に黄昏が夜空に呑まれようとしていた。視界の端でかすかに光る白い粒は一番星か。
 一番星。
 星。
 星の意志。
「星の意志ってなんだろうな」
 ふっと零れて夜空に溶け込んだのは坂里の声。まさに同じことを思い、同じことを口にしようとしていた田井中は、少しためらった後に言葉を重ねた。
「なんだろうな」
 控えめに輝く一番星や、ぴゅうと鳴く冷たい風、もしかしたら大谷の言葉が脳裏にこびりついたのも、彼女に言わせれば星の意志によるものなのか。
 再度口に入れたプリンが妙にぬるいのも、もしかして。

☆☆☆☆☆

 二月が終わり、三月になった。
 月が変わったからといって季節ががらりと様変わりするはずもなく、朝は肌寒いし空も曇天模様だ。陽気さの欠片もない春に身を震わせながら登校した田井中は、ふと、玄関前に大谷の姿を見つけた。襟首から伸びた長い髪を揺らして、とろとろと鈍い足取りで校舎へ向かっている。
 体が勝手に動き出した。
「大谷さん!」
 足を止めた大谷がゆったりと振り返る。ぱちり、と目が合った。
「田井中くんだ」
 ふわりと微笑んだ大谷が、またゆったりと歩み寄ってきた。真正面に立つ大谷の目は田井中の目とほぼ同じ位置にある。身長差がほとんどない事実に直面して男のプライドが動揺するが、今はかまけていられない。まずは挨拶だ。
「おはよう」
「おはよ」
 大谷は怒りや戸惑いといった感情をみせなかった。笑われても普通に応えていたという情報から予感はしていたが、やはり昨日の件など彼女にとっては何でもなかったのかもしれない。しかし、だからといって謝らないのは筋違いだ。田井中が一歩退いて頭を下げる。
「昨日はごめん。急に帰っちゃって」
「大丈夫、気にしてないから」
 声色は先ほどの挨拶と何ら変化がない。これが強がりではないと判断した田井中が頭を持ち上げると、表情を緩ませている大谷が目に入った。逃げる直前のあの微笑みを思わせる、柔らかくてあたたかい表情。違うところといえば、悲哀の影が見えない一点だ。あまりにご機嫌な様子から、田井中が控えめに首を傾げる。
「何かいいことあった?」
 大谷がふふと笑みを漏らす。おかしさが堪えきれなくなったように。
「昨日ね、田井中くんが私を好きって言ってくれたでしょ?」
「え? ……ああ、まあ、うん」
 その案件が絡んでいることに戸惑いながら相槌を打つ。田井中は漠然とした興味から声をかけたつもりなので、それが好意かと尋ねられれば素直に頷けない。だが正直に告げれば悲しませると察して、事実を呑み込んだ。それもこれも平が妙な耳打ちをしたせいだ。
「私ね、それが嬉しいの」
 ふわふわとした口振りで喜びを表す大谷が、田井中には不思議でならない。
「そんなに嬉しいの?」
 好意を告げられて嬉しくない人間はそうそういないはずだが、それにしても大袈裟な反応だ。疑問をそのままぶつけると、大谷は朗らかに肯定する。
「宇宙って、広いでしょ?」
 瞬間、景色が遠くなる。次ぐ言葉のスケールを想像し、その広さに立ち眩みしてしまいそう。
 ふと、松崎が彼女に送った蔑称を思い出した。
 宇宙ちゃん。
「この広い宇宙から、私を好きだと言ってくれる田井中くんが、私を見つけてくれたこと。それが、とても嬉しいの」
「いや、僕は、広い宇宙からじゃなくて、一年二組の教室の中から大谷さんを選んだつもりだけど」
「同じ国の同じ地域の同じ年に生まれて同じ学校を選んで同じクラスに入って、そこから選んだんでしょ?」
「んーと、広い意味ではそうなるのかな。僕には実感ないなあ。同じクラスになって初めて大谷さんを知ったからなあ」
「じゃあ、星の意志に導かれたんだね」
 出た、星の意志。田井中の心臓がこわばった。宇宙のくだりから圧倒されていても、やはりその単語は特別な意味を持っていた。
 星の意志って何。声にしようとした言葉は、しかし鳴り響く予鈴に引っ込んでしまう。なんというタイミングだ。地球は案外いじわるい。
「急がないと始まるね、授業」
 大谷もぼんやりしているなりに予鈴に急かされたらしい。緊張感の欠いた口調で「行こう」と告げると、ぶらりと下がった田井中の左手を掴む。
 小さな手は、見た目と反して柔らかい。
「田井中くん、あのね。田井中くんが声をかけてくれて、嬉しかったよ」
「う、うん」
「私も田井中くんのこと、好きだな」
 そう、ふわりと微笑みかけられてしまったら、返す言葉も逃げ出す始末。
 ぱたぱたと駆け出す大谷に引きずられ、重い両足がもたもたと動く。その間も大谷は何かを喋っているようだったが、その全てが耳を通り抜けていく。田井中の頭はあの笑顔で溢れ返っていた。このままでは今日の授業に支障をきたしそうで、しかし拭い去れる末来も見えない。いっそさぼればという悪魔のささやきも、片手が柔らかいそれに捕らわれている以上従えそうにない。結局現状ではどうしようもなくて、されるがまま引っ張られるしかない。
 星の意志とやらは、情けない男を見て楽しむ趣味があるのだろうか。漠然とした疑念に地球は応えてくれなかった。

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