じりじりと鼓膜をくすぐるノイズに似た音は、蝉か、それとも太陽か。夏の昼間はどうにも騒がしい。
 夏目は、名前にその季節を宿しているが、大していい感情はなかった。季節なら、浮き足立ったそれよりも穏やかな秋の方が好きだ。
 眩しい日差しに目を細めながら、前を歩く友人の背中を追いかける。
 じりじり、その音ばかりが脳を占める。
「水際」
「ん」
 友人の名前を呼ぶと、素直に応えて立ち止まってくれた。黒いTシャツとジーパンという簡素な身なりがよく似合う、あまり表情を変えない友人。水際。
「今度はどこに向かっているんだ?」
「なんで」
「なんでって」
「なんで聞くの」
「気になるから聞いているんだよ。お前はいつも『ついてからのお楽しみ』とか言うけど、そのたびに何も知らないまま振り回される身にもなってみろよ」
「知らない方が幸せなこともあるんだぞ」
「え、怖いんだけど。そんなやばい所を目指しているの?」
「内緒」
「……もう帰る」
「悪い所じゃないから安心しろよ。まあ、少し掛かるけど」
 思考を必要としない、条件反射のみで成り立った中身のない会話。その間も夏目は水際の足跡を辿っていた。口では帰ると言ったが、実際にそんな意思はない。水際と行動を共にすることは、夏目にとっては刺激的な遊びだから。
 コンクリートで固められた道を二人で歩く。遥か先に見える深緑の山は見覚えがあるが、脇に立つ住宅の数々はまるで記憶にない。馴染みのない道ではっきり認識できるのは、深緑の山と友人だけ。
 聞こえるのは、太陽か蝉か判別つかないノイズ。
 それともうひとつ。
 甲高くて要領の得ない、声。
「あ」
 女の子がいた。今まさに通りすぎようとしている水際のそばで立ち尽くして、ぎゃんぎゃんと泣きわめいている小さな女の子。
 涼しげな色のワンピースに、サンダルを履いている。その足元にはとけかけのアイスクリームと、倒れているワッフルコーン。
 アイスを落として泣いていることは容易に想像ができた。耳障りな蝉を上回る声量で、恐らく母親を呼んでいる。
 その柔らかそうな顔は、涙と鼻水と、恐らく汗でぐちゃぐちゃになっていた。
「夏目」
 水際に呼ばれて、自分まで立ち尽くしていたとようやく自覚する。夏目は水際を一瞥した後、改めて女の子を見遣る。
「水際、泣いてる」
「そうだな」
「可哀想に。アイス、勿体ないな」
「もう行くぞ」
「待って。アイス代、俺が出すから」
「構うなって」
「じゃあ、ハンカチだけでも」
「夏目」
 制止を聞かずに女の子へ歩み寄り、軽く屈んで視線を合わす。ここまで近付くと、いよいよべたべたの顔が際立った。
「大丈夫? アイス、残念だったね。お兄ちゃんが新しいのを買ってあげるよ」
 泣き声は止まらない。
「顔、酷いよ? ちょっと待って、今ハンカチを出すから」
 ママ、とぐちゃぐちゃの声で母親を求めている。
「夏目」
 不快音にも、喚声にも負けず、耳に届く水際の呼びかけ。夏目は聞こえないふりをしてポケットを漁るだけ。
 足元のアイスはもはや原型を留めてなく、液体と化したそれに無数の蟻がたかっている。
 白の中でうごめく黒は、ひとつひとつが生きていた。
「夏目、もう行くぞ」
「水際、ハンカチ持ってない? 俺、忘れてきちゃったみたいでさ」
「もういいじゃん。先、急ごう」
「どこに忘れてきたのかな、いつもは持ち歩いているのに。ていうか、こんな夏の日に置いてくるはずないよな」
「偶然だって」
「なあ、水際。今は夏だよな?」
「そうだな」
「日差しがこんな強いのに、アイスもすぐとけるのに、全然暑くないし、汗がまったく出ないんだ」
 女の子は泣き続けている。夏目や水際に見向きもしないまま。一切の反応を示さないまま。ぎゃんぎゃんと。
 二人の会話は、止まない喚声に打ち消されることはない。
 水際は夏目に歩み寄り、だらんと下がったその手を掴む。
「気のせいだ。行くぞ」
 強引に連れ出されて、驚きはするも素直に従った。
 女の子から遠ざかり、喚声が小さくなる。それに合わせて、脳裏に焼き付いたはずの、べたべたの顔が薄れゆく。
「先を急ごう」
「……ああ」
 表情を変えない友人を追うだけの道筋。遥か先には深緑の山。
 聞こえるのは、太陽か蝉か判別つかないノイズだけ。

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