屋敷の長い廊下を進む足が二つ。この廊下を誰かと歩くのはいつ以来だろう。
 白髪を揺らしながら俺の後ろを付きまとう闇の天使アーラ。隙あらば俺が腰に提げている刀に手を伸ばしているが、その度に体を逸らして防衛してやる。暫しそれを繰り返していると、やがて背後から殺気立つ気配を感じた。とうとう我慢の限界らしい。
「返しなさいよ! あんた、その刀がどういう物か分かってんの!?」
「刀身が長いくせにやけに軽い、切れ味も相当なものだ。突き刺されたらひとたまりもないだろう。これほどの刀は、並の天使じゃ作れない」
「そうよ。あなたを討つために天使長様が作ってくれた唯一無二の刀、吸血鬼殺しの武器。その名も“月夜との決別(クトネシリカ)”」
「そんなおっかない物なら、尚更返せないな」
「吸血鬼のあんたが持っても仕方ないじゃない! 返して! 天使長様から預かった大切な武器なの!」
「そういえば、天使長の命令だ、と言ったな? 直々に命令が下るとは大したものだ」
「あたしは億に一人の闇っ子よ! あなたに食べられることのない唯一の天使。だからあんたを殺すにはうってつけの人材なの」
「それ、本気で言っているのか?」
「本気よ! だからこそそれを取り返そうと……!」
「そうじゃなくて」
 足を止めて振り返り、彼女の火色の眼を見つめる。俺よりもずっと小さく、非力な天使は、戸惑った表情で俺と視線を交わらせる。
「光を喰らうのは俺だけだが、それ以外は全て闇を喰らう」
「……どういう意味よ?」
「俺が君を食べられないとしても、俺以外の全ての吸血鬼は皆、君を――一億分の一の珍味を食べたがるだろう」
 気を遣う理由もないので、真正面から言い放つ。しかし彼女は唇を噛み締めて目を伏せるのみ。先ほどのように荒々しく噛み付いてこない。
「……言いたいことはそれだけ?」
 もしかしたら、全て承知の上なのだろうか。
 吸血鬼の群れには、光の天使を放り込むより、闇の天使を放り込む方がずっと危険だ。天使長がそれに気が付かないはずもない。まして彼女もそのことに考えが及ばないなどあり得ない。自分の命に関することなのだから。
 火色に浮かぶ悲哀を拭う方法は持ち合わせていない。腰に提げた月夜との決別(クトネシリカ)を返したところでそれは晴れないだろう、俺の心臓に刀が突き立てられるだけだ。万が一、それで彼女の悲しみが払うとしても、その為に命を捧げるつもりもない。
「……アーラ、だったな」
 名を呼んだら睨まれた。敵意、殺意は健在らしい。こちらは敵対する理由もないから、こういう反応をされると困るものだ。
「俺の命を奪うまでば傍にいる、といったな?」
「そうよ。それがあたしの使命だもの。投げ出す訳にはいかないわ」
「そうか。だったら紹介しなければいけない人がいる」
「は?」
「この屋敷に住んでいるのは俺だけではないということだ」
「は??」
「これから一緒に住むのだろう? だったら住人同士挨拶をするのは当然じゃないか」
「あんた、おかしいんじゃないの? どうして同居すること前提で話が進んでいるのよ!」
「君は俺を殺さなきゃいけないし、俺は君に殺されるつもりはない。だったら決着が付くその時まで同じ屋根の下で生活するのが利口だろう? 君は俺の隙を窺えるし、俺は君の動向を窺える」
「でも……」
「傍にいると言い出したのは君の方だろう。何を迷う必要がある?」
 傍にいるというのはそういうことなのに、アーラは煮え切らない様子で言葉を詰まらせている。危険な地に乗り込む覚悟があって、同居する覚悟がないというのもおかしな話だ。
 このままじっと彼女の返答を待つのは時間の無駄だ。話を進めるために声を張り、弟の名を呼ぶ。
「ツァイ! いるならこっちに来い!」
 どんどんと廊下の奥へ反響していく俺の声。並の生物より身体能力が長けている吸血鬼は、無論、発声も達者という訳だ。
 反射的に両耳を塞いだアーラは、その格好のまま「何勝手に呼んでるのよ!!」と喚き出す。しかし悪いことをしたつもりもないから取り合う理由もない。俺は聞こえていないふりをした。
 やがて廊下奥から聞こえる緊張感のない緩やかな気配。アーラも感じ取ったようで、振り返り奥を見据えてから少しずつ退く。そうすると先ほどまで向かい合っていた俺とぶつかるのはごく当たり前の展開で、逃げ出そうとする彼女の双肩を押さえつけるのもまた成り行き上仕方のない展開だった。
「……やあヒューレー、おはよう」
 張りのない声色で現れた我が弟、ツァイ。俺と同じ黒い髪と、アーラと同じ火色の目を持つそいつは、へにゃりと力ない笑みを見せたと思えば、ようやくアーラのを見つけたらしい。彼女と向き合い、首を傾げた。
「ああ、ヒューレーのご飯? はじめまして天使さん、僕はツァイキュクロートン・マクラーン。君を捕まえているヒューレーキュクロートン・マクラーンの弟だよ」
「え、えっと……」
 動揺を隠せていないアーラは、不安げに視線を動かしているようだった。思えば、同属性――自分を食べることができる吸血鬼と対面しているんだ。しかも背後にはその仲間がいる。恐怖して当たり前か。
「ツァイ、この子はアーラだ。俺を殺しに来たらしい」
「それはそれは、遠くからご苦労様。でも僕の兄さんは手ごわいよ? 天使ばかり食べていたからか、普通の吸血鬼よりも魔道が達者で感覚も鋭い。子供の頃にやったかくれんぼは僕の全敗さ。鬼ごっこにしても、魔道禁止にしなきゃ誰も兄さんに敵わない」
「そんな話をしてどうする。――とにかく、俺は殺されるつもりもないし、この子も引くつもりはないらしい。だから事の決着がつくまで、この子を屋敷に住まわせることにした」
「優しい発想だねえ。食べちゃえばいいのに。ぱくんって」
 生唾を飲んだらしく、アーラの喉が動く。底知れぬ恐怖心が背中にも滲み出ている。可哀想になったので、俺は小さく首を振った。
「勘弁してくれ。この子は俺には毒なんだ。お前も簡単に食べるなよ。この子は一億分の一の珍種だ」
「わお!」
 不意に歓声をあげて、きらきらした目でアーラを見始めるツァイ。……まさかここまで食いつきがいいとは思わなかった。昔からこいつのことはよく分からないが、今日もまたいっそう分からない。
「闇の天使なんだ、初めて見た! そういえば目の色が僕と同じだね」
「え、えっと……」
「アーラちゃんだっけ? 宜しくね。ねえ、血でも指でも髪でも羽でもいいから、少しだけつまませてくれない?」
「な、何言ってるのよ! あんた馬鹿じゃないの!?」
「あはは、怒ってる顔かわいいー。ねえヒューレー、この子、僕がもらってもいい?」
「その子は俺の所有物じゃない」
「じゃあ決まりだ」
「ちょ、ちょっと! 決まりじゃないでしょ! あたしはあんたの物になるつもりもないし……!」
「アーラちゃん。つまむのが駄目でも、舐めるぐらいはいいよね?」
「近付かないで!」
 接近するツァイから逃げようと俺の手をふりほどいたと思えば、すかさず俺の後ろに隠れこむアーラ。対するツァイはそれが面白かったようで、わざとらしく「あれあれー?」と言いながら彼女を捕えようと追いかける。気が付けば俺を挟んで、二人で鬼ごっこを始めていた。
 必死で逃げるアーラと、あくまで楽しげに追いかけるツァイ。これが遊びだと理解していないアーラに同情の念を抱きはするが、かと言って俺にできることは、ツァイが遊びに飽きるのを待つことだけだった。

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