――五番乗り場に大阪行き特急電車が、約五分後に通過します。危険ですので黄色い線の内側に立ってお待ち下さい――


 五番乗り場で普通電車の到着を待つ白戸の耳に届いたのはお決まりのアナウンス。週に五回は聞くものだが、その情報が特別白戸の役に立ったことはなかった。彼が黄色い線――点字ブロックを超えるのは、電車に乗り込む時のみだからだ。大きな駅であっても片田舎には変わりない為利用者も少なく、外側へ追いやられる事態に陥ったこともない。だから白戸はそのアナウンスに、間もなく強風が吹きますので気を付けて、程度の意味しか見出せていない。
 しかし今日だけはいつもと違っていた。彼の正面、五番乗り場の黄色い線の外側に、まっすぐ立ち尽している少女の姿があったからだ。
 身にまとうセーラー服と足元に置かれた学生カバンは、彼女が自分と同じ高校の生徒だという事実を物語っている。しかしその後ろ姿――艶を抱いた長い黒髪と、すらりと細く整った足に見覚えはない。
 相手の顔も学年も分からないが、白戸は忠告しなければならないと考えた。そうしなければ、彼女のスカートが強風に煽られてしまうだろう。
「そこ、危ないよ」
 話しかけることに別段抵抗はなかったが、相手はそうとも限らないらしい。振り返った顔は、驚愕と緊張で覆われていた。
「……放っておいて」
「でも」
「いいの。好きでここにいるんだから」
「危ないよ」
「上等よ。ていうか、危なくなかったら意味ないから」
「なんで」
「死にたいから」
 震えた声で、憂いの瞳で、しかし強気な態度で少女は笑う。
「だから、黄色い線の外側に立っているの?」
「ええ。特急電車に撥ねられてやろうと思って」
「――その黄色い線、何だか知ってる?」
「点字ブロック」
「『この先は危険だから進まないで』って意味なんだよ」
「あたし、目は良いから」
「常識に視力は関係ない。あんたはそこにいちゃいけない人間だよ」
「そう。分かっているじゃない。あたしがいていいのは、線路の上か天の上よ」
 変わらず強気な笑顔を浮かべた後、少女は線路に向き直る。
 まるでぴんと張られた糸のような少女だと白戸は思った。細く長く美しく強く、そして危うい存在感。
 糸が電車に撥ねられるはずがない、と心のどこかで妙な安堵を感じる。
「あんた、名前は?」
「白戸」
「ねえ、白戸くん。あたしの背中、押してくれない?」
 すぐに意味が呑み込めない。見かねた少女が、噛み砕いて言葉を直す。
「白戸くんが、頑張って自殺して下さい、って言ってくれたら、あたしも線路に飛び込める気がするの」
「あんたの卑怯なアイデアの為に、自殺の手伝いはしたくない」
「じゃあ、そんな馬鹿な考えは止めなさい、とか言えないわけ?」
「馬鹿な真似だと自覚しているなら、おれの出る幕はないじゃないか」
「……分からないかな。分かっていても、死にたいってやつ。あんた、そう思ったこと」
「ない」
「あ、そう」
 昔から無神経と批判されてきた白戸は、物事全般への関心が薄い。故に、彼女の命の行く末にもさほど興味がなかった。
 だが少女は関心を得たいらしい。ひとつ息を落とした後、再び白戸に目をやった。
「好きな人にね、ふられたの」
「うん」
「ふられたショックで勉強に手が付かなくて、この前のテストは最悪だったの」
「うん」
「それで、追試に呼ばれたんだけど、出たくないの」
「うん」
「サボったら進学がやばくなるけど、それでも、出たくないの」
「うん」
「ニートにはなりたくないし、でも生きる楽しみはもうないし、もう死んでやろうかなって」
 羅列された動機。ひとつひとつが薄く軽いもので、彼女も自覚しているらしく薄く笑いながら語っていた。ところが白戸は否定せず、ひたすらに頷くだけだった。
「いいんじゃないかな」
 少女の顔に驚きが浮かぶ。どうやら白戸の肯定は、脳裏に浮かべた予想のどれとも異なるものらしい。
「おれから言わせれば、生きることに理由はないし、死ぬのに理由は要らないよ。思い立ったから死にました、それで充分じゃないか」
「そんなこと、普通の人間は思わないわよ」
「じゃあ普通の人間じゃないんだ、おれは」
「意味分かんない」
「意味も理由もないんだよ。形に残るのは、あんたが死んだって結果だけだから。実際あんたが死んだところで、おれには大したデメリットはないし」
「後ろめたいとか、思わないの? 止めればよかった、とか」
「その時はその時。おれは今、必死になってまであんたを止める気分じゃないから」

 ――間もなく特急電車が通過します――

 警告を兼ねた緊張感のないメロディとアナウンスが響き渡る。駅員の叫声は遠く、彼らの耳に届かない。
 白戸は立ち尽くし、あくまで無関心な、力のない口調で言い放つ。
「あんたが死んでも、何も変わらないよ。ただ、あんたが死ぬだけだ」
 特急電車が通過する。五番乗り場に木霊する空気抵抗の音は耳を劈き聴覚を麻痺させる。聴覚の代わりに活性した視覚は、漠然と、目の前で風に煽られ翻る少女のスカートを捉えていた。
 白。フリル付き。
 特急はすぐに過ぎ去り、取り残された少女は力が抜けたようにしゃがみ込む。
「あんたのせいだ」
「そう言われても」
 怨恨や憤怒、悲哀が入り混じる瞳は、先ほど憂いを秘めていた時より余程澄んでいる。
 奥底に安堵があるのかもしれない、と考えながらも、白戸は彼女に尋ねた。
「あんた、名前は?」
「黒羽」
「じゃあ、黒羽。詳しい話は、黄色い線の内側で」

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