中学三年生にとって秋は、現実というプレッシャーの影響で好きなように動き回ることが困難となる季節。生誕した時から秋を好んでいる久良木(きゅうらぎ)も例外ではなく、重苦しい荷物を背負っていることを自覚し、目に映える四季も素直に楽しめない状態でいた。
 一年後、自分はどこに立っているのか。その頃には大好きなはずの紅葉も、綺麗と思えることが出来なくなってしまうのか。彼女の胸には不安ばかりが募っていった。
 教科書を片付ける手を休めて、教室の中央右寄りの席にある背中へと眼差しを向ける。後ろと左から一番目の席からでは少しばかり距離はあるが、その背中を見ているだけで満足できた。この幸せなひと時に入ってからは、教員の話など既に断片すら理解できないお経だ。

 久良木はあの背中、南風原(はえばる)に好意を抱いている。

 久良木と南風原は幼稚園から現在までずっと同じ空間で学んできた。年代別に分けられた幼稚園はともかく、小学校と中学校でも一度も違うクラスになったことはない。しかも二人してずっと“3組”。これはもはや奇跡だと友人が笑っていたことを何気なく思い出す。
 ただし、それ以上の奇跡を彼女は知っている。十年ほど同じクラスが続いたにも関わらず、久良木が南風原と話を交えた回数は、両手の指で数えても間に合うかもしれないほど少ないのだ。
 遠慮なく話しかけられた時期――主に幼児時代なので記憶は曖昧だが――もあったのに、特別な感情が芽生えてしまってからは目を合わせることもままならなくて、小学校高学年以来会話した覚えがない。あるとしても記憶にすら残らない社交辞令程度のものだろう。
 お陰で『南風原くんはどこの学校へ行くの?』なんて他愛もない質問をぶつけることすら実行出来ないままでいた。

――――以上、ホームルームを終了とする。みんな、そろそろ進路をはっきりさせるように」

 担当教員が出すお決まりの言葉に、生徒たちは肯定や不平不満を口にする。その中で久良木は沈黙していた。


朱く染まる日


 たくさんの木々に見守られている通学路は、この時期になると紅葉によって色鮮やかな風景に変化する。
 普段は夕暮れにその道を通るのだが、今日は少し時間が早い。理由といえば、斜め三歩前で歩いている想い人。数ヶ月前から胸につっかかる疑問を尋ねたくて、彼の普段の下校時間に合わせたのだ。
 だからといって話しかける勇気は持ち合わせていなくて、ただ彼の歩いた道を沿うように進むしか出来ない。
「久良木」
「え?!」
 向こうから声をかけてくれば、驚きで両肩を跳ねさせる。南風原が足を止めて自分を見、声をかけたのだと気づけば、顔がどんどん熱くなる。
「……キンチョーしすぎ、名前呼んだだけなのに。お前、異性苦手すぎね?」
「そ、そんなことないよ」
 否定の言葉は後者に向けたもの。確かに久良木は異性を苦手としているが、少なくとも南風原は特別な存在なので苦手に分類されない。
「ところで……どうしたの、南風原くん。名前呼んだだけ、じゃないよね?」
「そりゃ、意味もなく呼ぶ名前にしては面倒だろ、キュウラギって」
 心の中で、落胆した際の効果音が響く。がーん。
「そんなに、面倒かな」
「ハエバルといい勝負だって。それよりさ、お前、好きな男のタイプってどんなの?」
 今度は効果音どころか、世界の色すら落ちてしまう。モノクロの景色を映し出す目は、これ以上なく大きく見開いていた。
 ここで『南風原くん』と言える勇気があったのなら、その勢いで逆プロポーズをしかねない。それほどまで、その疑問に答える余裕などなかった。
「な、なんで……?」
「いや、俺の友だちがお前のこと気にかけててな、聞いてみろって言われて」
 ああ、やっぱりその程度か。心の中に本日二度目の効果音がした。がーん。
「……それで素直に実行したの?」
「俺も自分で聞けって反抗したさ。だけど、これ聞いたらもう頼らないって譲らないから、まあ仕方なく」
 久良木は音にならないほど小さくつぶやく。「仕方なく、じゃないよ、もう……」
「で、答えは?」
「………………えっと、ノーコメント」
「了解。そのまま伝えておくよ」
 安堵の息が体中から漏れた気がした。もしここで追究されていたら、久良木は死ぬほど羞恥心を感じていた。
 南風原がまた歩き出すと、慌ててその後を追いかける。
「にしてもお前、モテるよな。お前を気にかけてる男、俺が知ってる中では二人目」
「え、嘘でしょ?」
「ここで嘘ついてどうするんだよ。まあ、顔も性格も悪くないから可愛いって思われやすいんだろな」
 どき。南風原の台詞に含まれた単語を耳にし、歓喜のあまりに胸が痛み、無意識に歩を休める。
「……南風原くんも、そう思ってる?」
 今年最大の勇気が込められた発言。その勇気に停止信号を出されたらしく、南風原もピタリと足を止める。顔は前を向いたままだが。
「…………さあ」
「その答え、ずるい」
「他に何て言えばいい訳?」
「……そうだよね、ゴメン」
「謝ることでもないって」
 無愛想な口振りの一言を残して、南風原は早足で去って行く。
 久良木の体内時計が煙を上げて故障する。停止した世界では呼吸すら許されず、通り過ぎたそよ風が残した寒気だけが彼女に時間の経過を伝えていた。
「……寒い」
 もうすぐ冬がやってくる。

 翌日はいっそう冷え込み、昼休みでも冬の訪れを肌に訴える。教員がこの学校はこんなにオウムがいたのかと笑うまでに、生徒たちは口々に「寒い」と繰り返しぼやいている。
 ただし南風原はそのような仕草を見せず、平然とした顔で自分の机に足をかけている。彼に羨望の眼差しと「人間じゃない」という冗談混じりのけなし文句が集中した。
 久良木の記憶がぼんやりと蘇らせる。彼は昔から寒気には耐性があった。今でこそ落ち着いているが、小学生の頃は雪が降れば子犬のようにはしゃぎ回り、雪合戦の時は寒さで動けない久良木を始めとする見学組にも容赦なく玉をぶつけ「早くこっちに来いよ」と強引に誘っていた。
 冬が好きすぎる生粋の冬生まれである彼は、紅葉を愛する生粋の秋生まれな自分と似ている。胸中に浮かんだ言葉が何となく嬉しくて、久良木は控えめに笑んだ。
 もし、『私たちって似ているね』なんて気軽に話しかけることが出来たら。だが、今年最大の勇気が空振りしたばかりでそんなこと出来る訳もない。今度はため息が漏れる。
「久良木さん」
 隣からの声に反応し首を動かすと、かがみながらこちらの顔を覗き込んでいる男子生徒と目が合った。その瞳は強張りながらも穏やかな色を浮かべている。
 同じ中学三年生、“2組”の 五百住(いおずみ) だ。一年の頃は久良木と南風原同様“3組”に所属していた。健康的に痩せている体型と気配り上手な面が、一部の女子と大半の後輩にウケがいい。ただし久良木にとっては一人の同級生に過ぎない存在だ。
「少しお話があるんだけど、いいかな?」
「え?」
 周囲が騒ぎ始めた。違うクラスの訪問者としてただでさえ目立っているのに、異性に話を持ちかけるなんて。
 脳裏に昨日の南風原が現れる。
『俺の友だちがお前のことを気にかけててな――――
 そういえば、と小さくひらめく。南風原と五百住は一年時に仲良くなっていて、よく二人で遊びに行っていた。今でも付き合いはあるらしい。
 久良木がつばを呑み込む。ごくっ。
「……何?」
「違う所で話したい。……二人きりになれる場所で」
 やじのテンションが異様に上がる。話の内容を全員が理解したのだろう。久良木は顔を曇らせる。
「ここじゃダメ?」
「落ち着いて話せないよ。場所、移る気ない?」
「ごめんなさい、二人きりにはなりたくなくて」
 今度は五百住の顔が曇る。「わかった」と寂しげに答えると、制服のポケットから四つに折られた紙を出し、それを久良木の膝に乗せる。
「出来れば直接伝えたかったけど、仕方ない。それじゃあね」
 ブーイングをするやじに見送られ、五百住は“3組”の教室を後にする。
 久良木は、彼の姿が消えるのを確認した後、慌てて紙をポケットへと突っ込んだ。綺麗に畳まれた紙がぐしゃりと潰れたが、それに気づく余裕はなかった。

 放課後を知らすチャイムと共に教室を飛び出した。息を切らして走り、通学路を囲む木々の一つに寄りかかってあの紙を開く。
 しわくちゃになった手紙が申し訳なくて、謝罪を込めた合掌をしてから久良木はその紙を開く。
 やたら小さくて小奇麗な字は、まず『久良木小夜さんへ』と出迎えてくれた。その次――冒頭は『一年の頃からずっと想っていました。』これだけで目まいを覚えたが、土を踏みしめて続きの文章を目で辿る。こういう所が好きだ、あの時もずっと見ていて、と恥ずかしいお決まりの言葉が続いて、とどめは『この気持ちに応えるかどうかはあなたの自由だけど、もしよかったら付き合ってほしい。 五百住一茶(いおずみいっさ) 』、そしてその下に綴られているメールアドレスと携帯の番号。
「…………!!」
 肺か胃かは判別に苦しむが、とりあえず胸の辺りが危険信号を上げている。襲ってくる吐き気は昼食ではなく手紙に込められた純粋な感情によるもの。好意は素直に嬉しかったのだが、長い間たった一人に片想いしていた彼女とは致命的に相性が悪かった。
「ゲホ、ッホ……」
 手紙が地面に落ちた。久良木はそれを拾う余裕もなく、口元を両手でおおいその場にしゃがみ込む。ああ、情けない。ラブレターを貰ってこんなに取り乱す人間などこの時代そうそういない筈なのに。ああ、情けない!
「久良木?」
 彼女に声をかけたのは、今、二番目に会いたくない人間。久良木は、いきなり現れた第二者を見上げる。
「はえば、るくん……」
「驚いた。五百住のラブレター貰って涙目になる奴がいるんだな」
 南風原は久良木の横へ行き、姿勢を低くし目線を合わせてから「嫌だったのか?」と尋ねる。久良木は一度ためらってから、小さく頷いた。
「五百住くんには悪いけど……」
「いや、いいだろ。あいつもフラれる覚悟の上でぶつかったんだし」
 首を傾げる久良木に、南風原は冗談のような口振りで「だって、異性が苦手と“ノーコメント”をちゃんと伝えたから」と軽く笑う。
「それに、嫌々付き合う方がよっぽど失礼ってもんだ。そこはキッパリ断るべきだって」
「そ、だよね……」
 久良木は一度、潤んだ瞳を袖で拭う。
「わざわざありがとう、南風原くん」
「わざわざ言うな。浅すぎるけど、十年来の付き合いじゃん。気にかけて当たり前」
「……覚えててくれたんだ」
「覚えるも何も、クラスメイトの名前は毎日嫌でも耳にするし。それが続いてるのに覚えてない方が奇跡だって」
「それも、今年で終わりかもしれないんだよね」
 南風原の表情が固まるのを、久良木はしかと目にした。久良木は言葉を続ける。
「わたしね、まだハッキリとは決まってないけど、春園高校へ入学するの」
「げ、偏差値高くてお堅い所。俺は近くの市立なら何でもいいやって思ってる」
「……じゃ、同じクラスじゃなくなるんだ」
「そう、なるな」
 途切れた肯定は南風原らしくないもので、それを感じ取った久良木は反射的に顔を伏せる。
 だが、哀しみは人を強くして、時に人を饒舌にさせて、時には人を酔わせてしまう。今の久良木がそれだった。



「わたしはさみしいよ、おしまいなんて。ずっと南風原くんのこと、見てたもの」




 目の前が朱く染まる。風に舞う落ち葉の所為か、相手の顔か、遅れてやってきた自身の熱がそう錯覚させているだけか。



「見てたって……え? それ、告白と取るべきなのか?」
「…………かも」
「かも、ってなあ……こっちも困るんだけど。てか、“ずっと”っていつから?」
「小学生の時から。それ以上はあまり聞かないで」
「もしかして、五百住のを断るのも」
「聞かないで……!」
「え、ああ、悪い」

 気まずい空気を流すように、或いは冷静になれない二人をからかうように、駆けた風がぴゅうと鳴いた。
 互いの顔すら見られない状況に、久良木も南風原も口を開けない。葉がかすれる音色と、通りかかる生徒たちの会話が沈黙から守ってくれた。
 突如立ち上がったのは久良木だ。制服に付着した落ち葉を払い落としてから手紙を拾い、南風原から顔を背ける。

「ごめん、忘れて。さよなら」
「ちょ、待てよ!」

 歩み出そうとする久良木の腕を掴む南風原。
「待ちたくない!」わめくように訴えても、彼はそれを聞き入れない。

「嫌だ」
「お願い、放して! もう南風原くんのこと見れないの、こんな顔見せたくないの……」
「俺は何も返事してない、なのに一方的に告って逃げる気か?」
「返事なんて期待してない、答えてほしくて言った訳じゃない! 南風原くんの返事がよかったらきっと高校が楽しくなくなる、でもその逆だったら学校へ行けなくなっちゃう! 自分勝手でごめん、でも、それだけ南風原くんが好きって分かってほしかっただけ、迷惑はかけたくない!」
「その意見がもう迷惑だ! 自分勝手って自覚しているなら、せめて俺の答えを聞け!」

 南風原が怒鳴ると、久良木が体を強張らせ抵抗を止める。南風原は息を一つ吐き、少し頭を掻いてから、彼女の頭に軽く手を乗せる。

「……まあ、その、なーんて主張しておきながら、明確な答えは決まってない」
「……………………」
「ただ、クラスメイトとしてなら、お前は好きな部類に入る。他のぺちゃくちゃ喋る女子たちに比べたらかなり良心的だしな。だけどそれは、お前の求めてる感情じゃないかもしれない」
「………………」
「だけどせっかくの告白をむげにしたくはない。もしもやったら、五百住に殺されるかもだし。そこで俺は考えた」
「…………?」

 久良木を抑える手を離し、後退して右手を差し出してくる。その頬は微かにもみじ色だ。

「俺たちさ、幼なじみから始めてみない?」
「……え?」
「アレだよ、『お友だちから始めましょう』に近いノリ。お互い子供の頃から知ってるのに友だちからってのも変だから、幼なじみ」
「うん……」
「で、幼なじみとしての関係を作ってる間に、俺はお前への答えを考えておく。そうだな、高校に入るまでには決めておくよ」
「……何か、変なの」

 奇妙な提案のお陰で緊張が解けたらしく、久良木は柔らかい笑みを零す。南風原が「だろ?」とにやついた。

「で、どうよ? 結構いいアイデアだと思うんだけど」
「……南風原くんがそれでいいなら、いいよ。少し照れるけど、何となく嬉しいし」
「んじゃ、幼なじみらしく名前で呼び合うか?」
「名前はさすがに恥ずかしいよ」
「あー、俺はいい提案だと思うんだけどな」
「南風原くん、そういう所は鈍感だもんね」
「お、言うようになったな。いいぞ、どんどんらしくなってきた」

 自然と進む言葉のキャッチボール。この時久良木の脳裏に浮かんだのは、まだ右も左も恋も知らなかった幼少期。子供でしかないあの頃は、何も考えずに互いの名前をたくさん口にした。

「名前がダメなら、せめて一緒に帰るか。それとも、どこか寄り道する?」
「寄り道よりも、五百住くんに謝りに行きたい」
「あ、そっか。じゃあ……今は委員の仕事してる筈だから、学校戻るか」
「うん」

 木の葉が揺れて、久良木を祝う。クラスメイトの関係から一歩踏み出せたことが嬉しくてたまらない久良木は、心臓が踊る、口元が緩む、頬が赤くなると、とにかく溢れんばかりの幸せが胸から湧いてくるのを感じた。
 幼馴染として、一体どのような会話をするべきか、どのように同じ時間を過ごすべきか、これから毎日一緒に帰るのか、頭の中はこれから先のことばかり考える。
 一年後、彼と同じこの道を歩めているのか。この紅葉が一段と美しく見えるのか。
 その時には互いを『 日向(ひなた) くん』と『 小夜(こよ) 』と呼び合える仲になっているだろうか。ああ、未来が楽しみだ。

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