愛を今日に閉じ込めて

 誰かが言った冗談に口を抑えてくすくすと笑う、そんなクラスメイトの女の子を目で追うようになったのはここ最近のことだった。
 その子の笑い方は上品で、女の子らしかった。おしとやかで目立ちすぎない、だけどいつでも可愛さを保っているその子に似合う笑い方。その表情と、その子そのものがとても眩しくて、可愛くて、どんどん特別になっていく。
 ああ、そうか、これが恋なんだ。
 初めての感情だったけど、何となくしっくりきた。雨水が土に染み込んでいくような、不思議な感覚。ちょっと気持ちがいい。
 この感覚を、あの子にも味わってほしい。そのためにはどうしよう? 考えてみたら、答えはすぐに出た。この想いを伝えたらいいんだ。
 誰かが自分を好きでいてくれるっていうのは、きっと、幸せな気持ちになれるから。

 今日の最後の授業をする前に、こっそりメモを渡した。
『話したいことがあるんだ。大事なこと』
 要件だけ伝えられたらと思っていたから、あの子から畳まれた紙を渡された時はびっくりした。開いてみたら、ちょっぴり丸くてきれいな字。
『教室から左、まっすぐ歩いて二番目の階段、そこの三階の踊り場で』
 そこは使う人があまりいなくて、おばけが出るなんて噂も立っている、まさに人目を避けた場所。あの子は大勢の前で話をしたくないらしい。こちらとしては人前でも物陰でも構わないから、あの子の都合に合わせることにした。
 クラス全員での別れの挨拶を済ませた後、友だちの目を盗んで待ち合わせ場所に急いだ。
 少しほこりっぽい踊り場には、六年生の図工の作品が飾ってあるだけ。人気なんてまるでないそこであの子の到着を待っている。しばらくして、あの子がやってきた。ランドセルは背負ってないけど、教室に置いてきたのかな。
「話したいことって?」
 踊り場についてすぐ、小さく微笑んで首を傾げてきた。細めた目元が可愛くて、好きだということを実感する。
「おれは、おまえが好きなんだ」
 細かった目が、ぱちくりと開かれる。
「好き、って」
「友だちとか、クラスメイトとして、じゃないよ。女の子としての、好き」
「そんな、困るよ」
 言葉どおりの困った顔も、やっぱり品があって女の子らしい。だけどここは、いつもの笑顔で頷いてほしかった。
「何で困ることがあるの? おれが好きってことで、都合が悪いことがあるの?」
「都合が悪いっていうか、そういうの無理だから」
 きょときょとと目が泳いで、声もどもっている。やっぱり可愛いけど、少しだけ傷ついた。
 おれの気持ちを疑っているのかな? だったら、どれだけ好きか伝えなくちゃ。
「笑った時の目元とか、くちゃっと崩れる表情とか、可愛くてさ。いつの間にか目が離せなくなっていたんだ。あ、その他の時も好きだよ。笑った時が一番だけどね。例えば、今日の音楽の授業でさ、歌ったよね。高いレの音とかすごくきれいに響いて、つい聞き惚れたな。一緒に歌っていた清水もうまかったけど、正直、邪魔だとも思ったもん。いや、羨ましかったのかな? 男子代表ならおれでもよかったのにな、なんてさ。だったら笹井と一緒に歌えたのに」
「あのさ、長谷川くん。ごめん、本当にごめんなんだけど」
「おれは本気だよ、笹井」
「……聞いてないから」
 低く、どすの利いた声に反応するように、踊り場が暗くなる。
 今の声は誰のもの? 目の前でうつむいているあの子のもの?
 あの子の目付きは、こんなに険しかったっけ?
「どれだけ本気とか、正直、興味ないから。というか、どのくらい好きかとか聞きたくもないし。困るとか、無理とか、オブラートに包んだ言い方をしたのが悪かったの? 嫌だって、はっきり言えばよかったの?」
 花模様がついた紺色のワンピースを着て、黒い髪はオレンジのゴムでふたつに括られている。見た目はおれの好きな子なのに、吐き出す言葉は、うなる声色は、向けられた眼差しは、まるでおれの知らない人。
「落ち着けよ。笹井らしくない」
 なだめようと手を伸ばしたら、簡単に払われてしまう。音は軽い。痛みもなかった。なのに、ぐらりと世界が眩む。
「そういうの、止めてよ。もう関わらないで」
「笹井」
「気持ち悪いの」

 大きな音が聞こえて、ようやく気が付いた。寝ていたわけじゃないのに、目が覚めたような感覚だった。
 視界は開けていた。習字も人影もなく、目の前に下り階段があるだけ。
 前に出していた両手は、どういうわけかじんと痺れている。
 耳の奥にこびりついている叫びは、いったい誰の声だろう。
 階段の下に転がっているあの女の子は、確か、おれの好きな子。
 おれを気持ち悪いと言った子。
(おまえなんか笹井じゃない。おれの好きなあの子じゃない)
 突きつけられた言葉と、突きつけた言葉。それらが頭の中で反響して、どんどん埋め尽くしていく。
 目の前の現実が黒く塗りつぶされていく。
「うわああああああああ!!」
 お腹の底から響いた音は、全身をぶるぶる震わせる。喉が痛くなっても止まらないそれがどうやって終わったのかは、覚えていなかった。

 それからは何もかもがあっという間。いろいろな場所へ連れられて、たくさんの大人たちと話をさせられて、最後には自分の部屋で寝かされた。
 母さんはおれを抱きしめた。父さんもおれに優しくしてくれた。先生はおれを褒めた。あの子の親だという、見たことのないおじさんとおばさんは、しきりに頭を下げていた。
 みんなは口を揃えていた。曰く、おれがあの場に居合わせなかったらもっと酷いことになっていたかもしれない。
 そうじゃない、なんて言えない。言えるわけがない。温かい言葉を聞くたびに、目が熱くなった。胸が苦しかった。だけど、その苦しみを口にする勇気なんてない。そんなことしたら、きっと怖いことになる。
(笹井が言ったら、どうしよう)
 階段を転がり落ちた時に強く頭を打って、それから意識が戻らないらしい。
 いっそそのまま目覚めなければ、と願ってすぐに後悔する。好きな子の不幸を願うなんて最低だ。好きな子に怪我をさせるなんて最低だ。
(おれは、最低だ)
 抱えた膝に顔をうずめて、ベッドに転がる。見慣れた天井は妙に現実感があって、味気ない。
 あの子は今も病院のベッドだ。落ち着いたらお見舞いに行こうねって母さんが言っていたのを思い出す。行きたい、だけど行きたくない。答えに詰まった沈黙は、イエスと同じ意味に捉えられた。

 意識が戻ったと聞いた時、胸のつっかえがぽろりと取れて、冷たい風が肝に吹き込んだ。
 母さんに手を引かれてお見舞いへ行くと、病室の前にはパッとしない顔をした病院の先生と、似たような表情のおじさんとおばさんがいた。
 三人は病室に入ろうとする母さんを呼び止めて、難しい話をし始める。内容は難しくて分からないけど、あまりいい話題じゃないらしい。おれの手を掴む母さんの力が少しずつ強くなっていったから。
 置いてけぼりのおれを見かねたのか、先生が屈んでおれに目を合わせる。
「君のお友だちは、たくさんのことを忘れてしまったんだ」
「忘れた?」
 思わず繰り返した。その言葉の意味こそ、うっかり忘れてしまったらしい。
 先生は小さく頷いた。
「基本的な挨拶に簡単な足し算、お箸の持ち方といったものは覚えているみたいだけど、思い出がね、きれいになくなってしまったんだ。学校のことも、家のことも、君のことも家族のことも、みんな忘れてしまった」
 胸が詰まって、肝の冷えがなくなっていく。
 あの子は忘れた。最低なおれを忘れた。
 最悪な別れを失くしたなら、きっとやり直せるはずだ。
「それでも会えるかい?」という先生の質問に、しっかり応える。そうしたら先生が病室の扉を開けてくれた。
 中に足を踏み入れると、すぐにあの子を見つけた。患者さんが着る服に、やっぱりふたつに結われた髪。おれを見つけるとすぐに穏やかな笑顔をみせてくれる。
「はじめまして」
 おれが好きな笑顔をみせてくれたその子は、紛れもなくおれが好きな女の子。だから同じように笑って返すことができた。
「はじめまして」

 先生が言ったとおり、あの時のことを含めて、何もかもをきれいに忘れていた。だからお見舞いに来たおれを嬉しそうに迎え入れて、おれがとったノートを受け取る。
「いつもありがとう、長谷川くん」
「このくらい、何でもないよ」
 クラスの中でお見舞いに来るのは、おれだけだった。いつか女友だちと楽しそうに過ごしていた姿をみかけたのに、不思議なくらい誰も来ない。色紙や手紙を送るという話は出ているけど、半ば先生が仕切っている状態だ。だから、必然的にプリントやノートは全部おれが届けることになり、その結果、病室に来る日も多くなる。
 記憶を失くしたその子は、それなりにおれを慕っているみたいだった。覚えている人間がことごとく少ないから、当たり前かもしれない。
 だからその子はおれに心を開き、おれもその子を受け入れる。とても心地よくて幸福とすら思うけど、同時に恐怖も膨れていった。
(思い出したら、どうなる?)
 今が幸せな分、何もかも壊れてしまう瞬間がとても怖い。また目付きが険しくなって、おれを拒むんじゃないかって、考えるだけで震えてしまう。
「長谷川くん、どうしたの?」
「……いや、何でもないよ」
 心配はかけたくないから、できるだけ平常なふりをする。だけどそれじゃ満足いかないらしく、ベッドの上のあの子は膨れ面だ。
「もしもできることがあったら、言ってね? 長谷川くんにはお世話になっているから」
「大丈夫だって。本当に何でもないから。というか、笹井に何かをやらせるわけにはいかないし」
「そりゃ、役立たずかもしれないけど……」
 眉の下がった顔をうつむかせてシーツを握り締める姿はとても可愛い。そこにはあの目付きの影もなくて、あれが悪い夢だったように思えてきた。
 そういえば、一体あれはなんだったんだろう。隠された本心か、それとも演技か。単なる気のせいだった可能性も、もしかしたら踊り場に潜むおばけの仕業って可能性もある。
 今まで考えすぎていたのかもしれない。だって目の前にいる子は、こんなにも穏やかでかよわいのに。
「笹井はおれが守るよ」
 今だから言える、精一杯の本当の気持ち。記憶を失っている間だけでも、そばにいて力になってあげたいというおれの気持ち。だって、思い出したら台無しになるから。
「…………は?」
 だから、低くどすの利いたおばけの声が聞こえた瞬間、何もかもが台無しになる光景が浮かんだ。
 父さんや母さん、学校の先生に病院の先生、おじさんおばさん、あの子自身から、責められて裏切られて嘆かれる。今まで褒められた分、どこまでも嫌われる。そして最後には警察に突き出されて、一生を牢屋で過ごすんだ!
 怖い、怖い、怖い怖い怖い! 氷の蛇が全身を這い、肝に牙を向けてくるんだ! 嫌だ嫌だ嫌だ! 犯罪者にはなりたくない!
「…………長谷川くん? どうしたの?」
 穏やかで優しい声が聞こえて、ようやく自分が目を瞑っていたのだと分かる。そっとまぶたを開けると、心配そうに覗き込んでくるあの子の姿があった。
 おばけはどこかへ消えたのかな。そもそもおばけが気のせいだったのかも。だけど、あの声は今でもこびりついている。あまりに低くてどすが利いたけど、確かにあの子によく似た声が。
 それでも目の前にいるのはおれの好きな子で、おばけじゃない。何も覚えていないこの子は、あいつじゃない。
「……何でもないよ」
 知らなすぎる子を安心させるため、無理やり笑顔を作った。どうも効果ありらしく、まだ何か言いたげだったけど「無理しないでね」と言い残して引き下がってくれた。
 やっぱり優しくて、しおらしい。この子がこの子でいる限り、きっと平穏は保たれる。
 今はまだ大丈夫。

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