穏やかで楽しい暮らしが終わる日、広すぎるリビングで、私たちはお茶を飲みながら話をしていた。
日が沈んでから随分と経過した。時計の針は十二時を越えていたが、私の前にいる小さな男の子は眠ることを苦手としているため、この時間帯でも活発だ。
「ルフレおねえちゃん、何かお話して」
男の子が無邪気に目を輝かせる。このやり取りが始まってから今日で三十日。一日に二回は飛んでくるこの振りへの答えなど、一週間前から尽きている。
「でも、もう話すことないよ」
「えー」
「ネグロから話題を見つけてみて。そしたら答えられるから」
こちらから振ってみれば、素直に「んーとねー」と頭を抱えて悩み出す。その素直な反応が愛らしくて、私は笑みを浮かべてしまった。
私はルフレ、この子はネグロ。同じ屋根の下で暮らしている同居人。
スキアーと訪れた港町で、黒い鳥が西の孤島へ向かっていったと聞きつけ、小船を持ち込んで上陸した。だけどそこから一向に進展はない。人間の三倍以上ある巨体はどこからも見えず、耳をつんざくような鳴き声も聞こえた試しがない。地面に注意を払っても体積に見合う足跡はない。
どれだけ時間をかけても変わりはなく、諦めて港町へ戻ろうかと考えていた時、私は島の中央に灯りの絶えない屋敷があることを知った。
その屋敷のただひとりの住人こそがネグロだった。
ネグロは、島の外へ行ったことがない、ずっとひとりだったと言い、私の存在、経験に強い興味を持ったらしい。「おねえちゃん」と呼び慕い、何かと話を聞きたがる。そんなネグロに押されながら、逆に目当ての鳥について聞いてみれば「この島に住んでいるけど、今はいないんだ。いつか帰ってくるよ」という曖昧すぎる答えが返ってきた。
あれほどの存在感なら、戻ってくればすぐに分かるはず。そう判断した私は、屋敷を借りてネグロと生活を共にすることにしたのだ。
「ルフレおねえちゃんの髪の色って、お父さん似? お母さん似?」
ようやく興味を抱ける話題を見出したらしい。ネグロは首を傾げて、私の髪を凝視する。
白い髪は、彼にとって珍しいのかもしれない。或いは、自分が持つ黒い髪以外、どんな色でも不慣れなのか。ともかく私は自分の髪をつまんで「父さん譲り」と答えた。
「母さんと姉さんが桃色の髪で、父さんと私が白色の髪」
「お姉さん? ルフレおねえちゃんにもお姉さんがいるの?」
「そうだよ。ネグロにもお姉さんがいるの?」
「ぼくのお姉さんは、ルフレおねえちゃんだよ!」
「あはは、そっか。じゃあネグロは、私の弟になるわけだ」
弟。そう口にして、ふと思い出す。私にも弟と呼べる存在がいたことを。
脳裏に響いた羽音は懐かしい。目を瞑ると、白い羽根がまぶたの裏に浮かび上がる。
「……私ね、鳥を飼っていたことがあるんだ」
どういうわけかネグロは、私以外への興味が薄かった。話題が尽き、ナハトやスキアーの話をしてみても、いつも退屈そうに唇を尖らせて「ぼく、その人たち知らないし」と答えるだけ。だから今回もそのような反応が来ると想定していたが、思いのほか食いつきは良かった。
「鳥? ねえ、それってどんな子?」
表情をほころばせながら尋ねてくるネグロは、どことなくご機嫌だ。口にしていたティーカップを机に戻し、話し始めるよりも早く耳を傾けてくる。男は駄目でも鳥ならいいとでも言うのかこの子は。
「……クロロって名前の、白い鳥。巣から落ちているところを拾ったの」
「うん」
「私の髪とクロロの毛、色がそっくりでさ。だから、弟ができたんだ、って、一生懸命、面倒みてたんだ」
「うん」
「……逃げてっちゃったんだけどね」
部屋に戻ると、鳥かごが床に転がっていて、中に誰もいなかった。落ちた拍子に鍵が外れ、そこからクロロが飛び立ったのだろう。
忘れもしない、心に残った傷跡、光景。
「…………多分クロロは、驚いて飛び出しちゃったんだよ」
落ち着ききった静かな声が、ネグロから零れた。今までの幼さを感じられない、まるで別人のような雰囲気で、表情で。
「だから、ルフレおねえちゃんが気にすること、ないよ」
「……だと、いいんだけど」
「だってクロロは、ルフレおねえちゃんのこと、大好きだったんでしょ?」
「……そうよ」
ネグロの言うとおり、クロロは私によく懐いていた。私だけ、と言っても良いほどに。
「ナハトも一緒に世話をしてくれてたんだけど、クロロ、どういうわけかナハトには絶対懐かなかったのよ」
微かにネグロの目が据わる。
「嫉妬してたんじゃない?」
「そうかもしれない」
だけど、いや、だからこそ、繋がる話があった。
私はナハトと共に鳥を飼っていた。そしてナハトは鳥に呪われた。
スキアーは妹と共に羊を飼っていた。そしてスキアーの妹は羊に眠らされた。
かつてスキアーが推測したことがある。
飼育している動物と襲った動物が一致している、と。飼っていた羊は妹に決して懐かなかった、と。自分が飼っていた羊と妹を襲った羊、体毛や体積こそ違うけど、飼っていた羊につけたはずの包帯を黒い羊がつけていた、と。
「……だからクロロは、ナハトを襲ったのかな」
息を呑む音が聞こえた。
「どうしてか、どういうわけか分からないけど、クロロが大きくなって、黒くなって、それでナハトを襲ったのかもしれない。ナハトが妬ましかったから」
「それは」
「それは? それは、何?」
「…………」
「ネグロ、あなたに何か分かるの?」
「……何も分からないよ。だけどっ」
立ち上がったネグロが、強引に私の手を掴んだ。
「ナハト、ナハト、言い過ぎだよ。ここにはルフレおねえちゃんとぼくしかいないんだよ。他の人の話なんかしないでよ!」
「ネグロ……」
「ぼく、ルフレおねえちゃんがいてくれるだけでいいんだ! それ以外に何もいらない!」
その手はとても小さくて、それ以上に温かくて。
「だから、ぼくだけを見てよ、ぼくだけのものになってよ、ルフレおねえちゃん!」
まるで。
「鳥みたい」
目の前の表情が固まった。
全ての万物を混ぜ合わせたような――混沌のような、底知れぬ黒い髪。見開いた瞳は血のような赤。クロロの目の色とそっくりだった。
「…………ごめんね、ネグロ。ネグロのことは大好きだよ」
「ルフレ、おねえちゃん……?」
「でも、私はナハトを助けなきゃいけないから。そう、あいつと約束したから。だから私は、殺さなくちゃいけないのよ、あの鳥を」
「…………そんなに、ナハトが大切?」
「……うん」
「……そっか」
目を伏せたネグロは、私の手を離して二、三歩退いた後、力なく笑う。
「分かった。分かったよ、おねえちゃん。今日もお話、ありがとうね」
「ネグロ」
「おやすみなさい。ぼく、もう寝るよ」
「ネグロ……!」
呼びかけに応えないまま、ネグロは足早にリビングを出た。その背中があまりに小さくて、頼りないから、駆け寄って抱きしめようかとも考えたが、何故だか足が酷く重かった。
これは、穏やかで楽しい暮らしが終わる日。
ネグロが自分の首を掻き切る前の夜。